Wikipedia:井戸端
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[編集] 放送番組の検証可能性について 20120411
元議論はノート:あの夏で待ってるで行っておりましたが、記事とは無関係な議論になったとの発言もありますゆえ、議論場を井戸端へ移動します。
議論は2012年3月6日15:03(UTC)のDojikingさんの発言に対する2012年3月21日11:28(UTC)の私の発言に端を発します。Dojikingさんの発言が検証可能性の理解不足でないかと思い件の発言を行いました。その後DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません、ご了承を。その後も議論を続け検証可能性について言及がされましたが、
- 「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」とする拙案
- 「検証する手段を保有している人が検証する」とするDojikingさん案
以上の二つが正面からぶつかっております。一対一で議論しても話が平行線を辿る一方のため、広くご意見を頂きたく宜しくお願い致します。--Ritis(会話) 2012年4月11日 (水) 12:15 (UTC)
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- 放送局や制作会社が保存しているはずのVTRやフィルムにきっと残っているはずだから検証可能だ!・・・は、恐らく誰の賛同も得られないと思うのですが。この場合の検証可能って、閲覧者層や検証を望む将来の編集者が、そのVTRやフィルムを見ることが現実的に可能かどうかですから。・・・・・・無理でしょう。それが検証可能と認められるなら、どこかの会社のどこかの会議資料も「検証可能」になってしまいますし、○○家に門外不出の古文書なども「検証可能」と見なせてしまいませんか?望めば誰でも(多少は困難でもよいので)検証できなくてはいけません。--Hman(会話) 2012年4月11日 (水) 13:07 (UTC)
- 検証可能性の「検証」は、読者自身が記述の正確さを確かめるために行う行為です。そのため、読者が検証を行いたいときに、常識的な方法で入手できる資料だけが検証可能だといえます。したがって、「検証する手段を保有している人」が「不特定多数のウィキペディアの読者」と等しくならないものはふさわしくありません。そういった事情から、一度見逃してしまうと見ることの出来ないテレビ番組は、検証可能な資料とはみなされてきませんでした。--有足魚(会話) 2012年4月11日 (水) 13:36 (UTC)
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- 一般論でいうと公開された動画は検証可能性を満たしています。一方で、テレビなどの一回きりの流しっぱなしの放送番組は記録しておかないと消えてしまうので検証可能性を満たしていないです。検証可能性というのは、他の人もその情報の裏が取れるということです。要するに「俺がTVで観たときはこうなっていた」は他の人が検証しようがないです。方針WP:V#NRでもそういう風になっています。
- 一方で、今回のケース、記事の主題が放送番組自体の場合、ここまで厳格にこのルールを適用できないと思います。というのは、プロットやキャラクターに関しては放送内容をもとに記述することができるのに、それ以外のことは検証可能性を満たしていないので記述することができないというのでは変な感じです。番組を観た編集者の間で見解が一致しているのであれば(もめていないのであれば)、主題が放送番組の記事では放送内容を根拠にしてもよいのでは。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 13:58 (UTC)
- それについては、後日、アニメ評論家なり、アニメ雑誌なりによる「二次資料」が出てくれば検証可能と言うシステムですね。10年もすれば「懐かしのアニメ」的なムックが出てくるかもしれません。一次資料ですが、制作者のうちあけ話も出てくるかもしれません。それから書けば良いのです。「二次資料がまだ出てこないから取り敢えず検証不可能だが書いておく」のは、非常にまずいんじゃないでしょうか。そこまで拙速を求める必要はありませんし、ウィキペディアは速度より検証可能性と信頼性に重きを置くべきものと心得ておりますのですが。クイズ番組やバラエティ番組の記事などでも、「見た」からと言って加筆される例を非常に多く見かける印象があるのですが、検証も反証も不可能でして、いやはやなんとも・・・。検証可能性、大切ですよ。ウィキペディアでは。この辺りはWikipedia:検証可能性にぼんやりと書いてはあるのですが、もう少々踏み込んでわかりやすく明記しておくべきなんじゃないかと、今の状況を見ると、考えざるを得ません(もちろんこれはウィキペディアと言うサイトの指向がそういうものなんじゃないかと言うだけの話であり、テレビで見たままを記述してよいwiki百科事典は、それはそれでもちろん、アリと思います。私も結構余所で色々、自由奔放に、楽しく書いてます)。--Hman(会話) 2012年4月11日 (水) 14:08 (UTC)
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- もとの議論をちゃんと追っていないので勘違いしているだけかもしれませんが、もめているのはテレビ番組のエピソードのサブタイトルの表記をめぐってですよね?この場合はもっぱら一次資料(つまり作品そのもの)に依拠することになると思うのですが。たとえば、ある本を主題にした記事で章見出しを一覧にしたい、という場合はその本を見ながら書くことになると思うのですが。活字媒体と違ってテレビ放送には原則として検証可能性がないというのはそのとおりですが、一方でテレビ番組を一次情報にあらすじや登場人物を記述することは一般的に行われていて、問題の記事でもそうなっています。たとえば、あるテレビドラマで時間の経過を表すために画面に「その3日後」というキャプションが表示されたとして、ウィキペディアの記事の「あらすじ」に「それから3日が経って」と書くのはありなのに、番組冒頭で画面に表示されたサブタイトルはウィキペディアでは参考にできない、というのでは変だと思います。何を情報源にして記事を書くかは記事の主題によるかなと。
- 製作者や出演者のコメント、作品の評価といった二次情報を記述する際にテレビ放送を認めるべきではない、というのはそのとおりだと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 16:16 (UTC)
- 今回の場合は議場が井戸端ですので、テレビ放送が検証可能かと言う一般論で考えるべきでしょう。Bugandhoneyさんの仰る「テレビドラマでそれから3日経ってと表記されていた」とういものも、やはりこれがDVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。人によってはDVDやBDでさえ十分でないと仰る場合もあります。まあ所詮一次資料ですから、一次資料なりの扱いしかできないのですが。筆がちょっと走りすぎるとすぐに独自研究になってしまいます。そう言った意味で二次資料の報が遥かに好ましいのは申し上げるまでもありませんがそれはさておいても、結局史料が出てくるまでは有効な出典を示せません。検証不可能なので、書くべきではないのです。更に、「本放送では甲であったが、DVDでは乙であった。確かにそうなのだ。私は確かに見た」場合も、それがDVDの冊子やその他各種二次資料で示されるまで、書くべきではないんですね。どうしても入れ込まねばならないほど重要なことであればきっといずれ二次資料が出る、と、どんと構えているしかないでしょう。まあウィキペディアって大抵そんな事だらけですし。漫画やゲームならまだ、十分に流通に乗ったものでしたら現実に情報にアクセスできる可能性もあると言えますが、いかんせん電波は、無理でしょうね。もっとも、DVD化されていなくても、その気で望めば多少時間と手数料がかかっても、常識の範囲で、おおよそ誰もが検証できる映像ソースももちろんありますでしょう。そういうものが示されましたら、それはそれでケースに合わせて検討すれば良いのです。・・・と、Wikipedia:検証可能性は言っていると思うんですけどね。結局は「(誰でもそれなりに満足に)検証可能かどうか」ですから。--Hman(会話) 2012年4月11日 (水) 16:41 (UTC)
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- 誤解を生じない様、念のため発言させて頂きます。元のノートでも述べていますが、私は「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」と言う意見を否定する気は全く有りません。検証するのが編集者であるか閲覧者であるかを、限定しなければならない様な理由は全く無いと思います。ただし、それはあくまでも「検証する手段を保有していれば」の話です。検証材料が無いのに検証すると言う発想は有り得ないと思いますし、検証材料が手に入らないから検証可能性を満たさないと言う事にもならないと思います。そうでなければ、高価な専門書を出典とする様な記事で、「そんな書籍を私は買えない」「だから検証できない」「なので検証可能性を満たさない」と言う事になってしまいます。ニュースやバラエティであればともかく、不特定多数の方が録画を所有している事が期待できる、アニメやドラマの場合に於いて、「私は録画を所有していない」「だから検証可能性を満たさない」は、通用する話では無いと考える次第であり、事実、本放送作中の描写は、無数の記事に於いて存在していますし、それを全否定すると言う話は、現実問題として有り得ないと思います。--Dojiking(会話) 2012年4月11日 (水) 16:45 (UTC)
- 一部の記事で高価な文献を使っている可能性もあるのでアニメ記事でも電波を出典としてよい、とはもちろん、なりません。他の出典に問題が有るのであれば、それは他の記事を改善すべきだけの話です。もちろん極端に参照(購入する必要は無いんですよ、念のため。アニメDVD/BDだと公的な図書館での参照や貸し出しが難しく、購入になる場合が多そうですが)が難しく事実上不可能だと言いたくなる様な文献が典拠とされているのは、厳しいでしょうね。そちらはそちらで改善しましょう。もちろん、日本中に幾十枚か幾百枚か有るかもしれないでもない本放送の個人録画・個人所有のDVDは、満足に検証出来る媒体ではありません。--Hman(会話) 2012年4月11日 (水) 17:06 (UTC)
- 誤解を生じない様、念のため発言させて頂きます。元のノートでも述べていますが、私は「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」と言う意見を否定する気は全く有りません。検証するのが編集者であるか閲覧者であるかを、限定しなければならない様な理由は全く無いと思います。ただし、それはあくまでも「検証する手段を保有していれば」の話です。検証材料が無いのに検証すると言う発想は有り得ないと思いますし、検証材料が手に入らないから検証可能性を満たさないと言う事にもならないと思います。そうでなければ、高価な専門書を出典とする様な記事で、「そんな書籍を私は買えない」「だから検証できない」「なので検証可能性を満たさない」と言う事になってしまいます。ニュースやバラエティであればともかく、不特定多数の方が録画を所有している事が期待できる、アニメやドラマの場合に於いて、「私は録画を所有していない」「だから検証可能性を満たさない」は、通用する話では無いと考える次第であり、事実、本放送作中の描写は、無数の記事に於いて存在していますし、それを全否定すると言う話は、現実問題として有り得ないと思います。--Dojiking(会話) 2012年4月11日 (水) 16:45 (UTC)
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- Hmanさん、コメントどうもです。いろいろと読み比べてみた結果、Hmanさんと似たような意見に変わりました。一番合点がいったのはen:Wikipedia:Identifying reliable sources#Overviewでした。ここには"Published"(公表された)の定義には音声や動画など放送されたものも含まれるが、"Additionally"として但し書きがあり、その場合はアーカイブされたコピーが存在することが必須だ、となっています。その際、有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけだと限定すると、私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず、ウィキペディアでは出典として用いることができない、ということになると思います。DVDなどになっていないテレビドラマでも、あらすじや登場人物を記述することは現状では広く行われていますが、これは検証可能性の方針が一貫して適用されているわけではないから、というふうに理解することにします。DVDとして発売されていなくても、何がしかの機関が録画・アーカイブにしていれば、検証可能性を満たすことになると思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 18:44 (UTC)
- まあ結局は「まともに参照可能かどうか」なだけでして(その次には信頼出来るかという関門がありますが)、昔から言われているらしい笑い話に、「マニアックな文献を出典としたいなら、それを図書館に寄贈してしまえばいい。それで検証可能になる」などと言うものがあります(笑)。DVDなどになっていないテレビドラマのあらすじ等は、どうなさったのかは執筆成されたご本人に聞いてみないとわかりません。ウィキペディア創世記は、方針の適用もかなり鷹揚(適当)だったと聞きまして、この3,4年でしょうか、記事の数や分量もそれなりに整ってきたしそろそろちゃんと方針通り、信頼できる百科事典にしていこう、となってきた様です。すいません、私も特にかつてのIP時代など、ちゃんとした本でなくて真偽不明のネット情報やテレビを見た記憶で書いた事がいっぱいあります(苦笑)。はい、もちろんその様な事は現在も将来も、もう金輪際行いません。でまあ、そう言った時代の記事については徐々に(時として大幅削減と言う痛みを伴いながら)改善していくしかないのですが、何よりこれ以上増やさない事が、急務なんでしょうね。何十人もの人が情熱を注ぎ込んだ記事の大幅削減と言うのは本当、心が痛むのですが(他のwikiに転載すればいいのかもしれませんね)。--Hman(会話) 2012年4月11日 (水) 20:44 (UTC)
- Hmanさん、コメントどうもです。いろいろと読み比べてみた結果、Hmanさんと似たような意見に変わりました。一番合点がいったのはen:Wikipedia:Identifying reliable sources#Overviewでした。ここには"Published"(公表された)の定義には音声や動画など放送されたものも含まれるが、"Additionally"として但し書きがあり、その場合はアーカイブされたコピーが存在することが必須だ、となっています。その際、有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけだと限定すると、私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず、ウィキペディアでは出典として用いることができない、ということになると思います。DVDなどになっていないテレビドラマでも、あらすじや登場人物を記述することは現状では広く行われていますが、これは検証可能性の方針が一貫して適用されているわけではないから、というふうに理解することにします。DVDとして発売されていなくても、何がしかの機関が録画・アーカイブにしていれば、検証可能性を満たすことになると思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 18:44 (UTC)
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- 武勇伝(?)どうもありがとうございました。en:Wikipedia:Reliable sources/Cost(私論)には、その資料がたった一箇所のアーカイブや博物館でしか閲覧可能でないとしても検証可能であることには変わらない、とはっきり書いてありますね。テレビドラマのあらすじは新聞の番組紹介やテレビ情報誌を参考にすることもできますが、そういうのは普通結末までは書いてないのでウィキペディアで紹介するあらすじとしては不適当なはずです。あらすじには普通出典をつけないですが、これは記事の主題である作品そのものが出典であることは自明だからだと解釈しています。つまり、アーカイブのないテレビドラマのあらすじは検証可能性を満たしていないとみなされても仕方ないでしょう。ただ、今どきテレビドラマなんて、どこかでアーカイブにされてそうですが。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 21:39 (UTC)
- 日本語版にどの様なかたちで移入されるのか、或いは制式化されるのかは全くわかりませんが、相応に公的な資料館で確かに閲覧できるのであれば、検証可能と見なされるのが自然そうです。私の頼りない英語力で読む分には、全ての項目について妥当な考え方に見えます。現在でも書籍なら、どうやら「地方図書館になくとも最悪国会図書館に蔵書されていればよし」と言う運用になっていますしね。フィクションのあらすじに出典が明記されていない事例が多いのは、ご指摘の理由によります(細かい点については何巻、何分頃、まで脚注で示すべきでしょう)。実際にその参照先がどうなのかは個別の記事に因りますので、ノートでお問い合わせ頂くよりないでしょう。実は何かの本が典拠でした、となって頂きたいものです。--Hman(会話) 2012年4月12日 (木) 04:06 (UTC)
- 武勇伝(?)どうもありがとうございました。en:Wikipedia:Reliable sources/Cost(私論)には、その資料がたった一箇所のアーカイブや博物館でしか閲覧可能でないとしても検証可能であることには変わらない、とはっきり書いてありますね。テレビドラマのあらすじは新聞の番組紹介やテレビ情報誌を参考にすることもできますが、そういうのは普通結末までは書いてないのでウィキペディアで紹介するあらすじとしては不適当なはずです。あらすじには普通出典をつけないですが、これは記事の主題である作品そのものが出典であることは自明だからだと解釈しています。つまり、アーカイブのないテレビドラマのあらすじは検証可能性を満たしていないとみなされても仕方ないでしょう。ただ、今どきテレビドラマなんて、どこかでアーカイブにされてそうですが。--Bugandhoney(会話) 2012年4月11日 (水) 21:39 (UTC)
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- 議論の為の議論の結果として、「本放送は検証可能性を満たさない」と結論付ける事は簡単ですが、それを編集方針として記事の編集を行ったとして、現状のWikipediaに於いて、果たして支持は得られるのでしょうか。現実問題として、本放送を出典とする記述は星の数ほど有り、放送作品の記事全てに存在すると言っても過言では無い状況下で、その全てを「検証可能性を満たさない」として切り捨て、片っ端から記述の除去を行ったとして、それが受け入れられる行為だと思われますか。もちろん、何処かのガイドラインに「本放送は検証可能性を満たさない」と、誰もが読み取れる表現で明記されたとすれば、それに沿った編集を行うのが筋ですが、現状の曖昧で解釈の分かれる記述では、許容される編集とは到底思えません。また、受け入れられたと仮定しても、その様な編集を行った記事が、マトモな記事としての体裁を維持できるのかどうか、甚だ疑問に思われます。もし、「本放送は検証可能性を満たさない」と明言されている皆さんが、実際にその方針に沿って編集を行われているのであれば、該当する記事を御案内頂ければ参考にしたいと思いますが、実在しないと言う事であれば、裏付けの無い机上の空論に過ぎず、全く説得力が有りませんし、今後その様に編集する、と言われても、単なる掛け声に過ぎません。ノートであれ井戸端であれ、議論の経緯や結果は少なからず周りに影響を与えますし、この場の議論の結果を頑なに遵守する編集者も現れるかもしれません。もっと現状を見据えた上で、それを指針とした編集が実際に行われる事を想定した議論を行うべきではないでしょうか。なお、「Additionally」には「アーカイブされたコピーの存在が必要」とは書かれていますが、「有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけ」とも「私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず」とも書かれておらず、「ウィキペディアでは出典として用いることができない」との発想は、余りにも強引で乱暴過ぎると思います。--Dojiking(会話) 2012年4月12日 (木) 08:13 (UTC)
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まあ、個人的なアーカイヴが検証可能なものとして認められることは、ウィキペディアでは、ありえないでしょう。--Hman(会話) 2012年4月12日 (木) 09:37 (UTC)
- 個人が撮影したホームビデオならイザ知らず、本放送された作品の録画が検証可能では無いなんて話は、支持を得られる意見では無いですね。--Dojiking(会話) 2012年4月12日 (木) 11:40 (UTC)
- これ以上私から申し上げることは無さそうです。もちろん方針の改訂に向けてのロビー活動に制限はありません。--Hman(会話) 2012年4月12日 (木) 11:52 (UTC)
- 一つの懸念としてあるのは、その録画が全く何の改変もされていないという保証は誰が行うのでしょうか。ウィキペディアは匿名の不特定多数の人間が編集しているのですから、たとえ善意の行動だとしてもすべてを信頼するわけには行きません。--有足魚(会話) 2012年4月12日 (木) 11:55 (UTC)
コメント それだとコモンズの画像を元に記述したものも「Photoshopで大きく加工したかもしれないから無効」となって泥沼化するような気もするのですが……(出典がない記述は論外として)Wikipediaは性善説ではないのでしょうか。あと、素朴な疑問なのですが専門家自身が「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」とWeblogや書籍でmentionするのは出典になるのでしょうか。こうなってくると「なる」にしても「ならない」にしても異論が噴出してくる感じがするのですが。--にの(会話) 2012年4月12日 (木) 12:35 (UTC)
- 画像に関しては確かにおっしゃるとおりで、撮影者を信頼する姿勢なのだと思います。しかし、そういった画像は記事の記述の出典にはならないので、ここで議論になっている話題とは関係しないと思います。複数の情報源で矛盾する事実があった場合は、Wikipedia:中立的な観点に従って記述されるべきでしょう。--有足魚(会話) 2012年4月12日 (木) 13:30 (UTC)
- ブログはともかくTwitterは気軽に放言できてしまうと言う問題が有り、公式に書籍として出版する場合より慎重に扱わねばならないと思いますが。東日本大震災および福島原発事故の時も、Twitterでのつぶやきを逐一記事に盛り込もうとして悶着が有った様な記憶が・・・。Wikipedia:中立的な観点やWikipedia:言葉を濁さないに則って、○○がTwitterでつぶやいた、という筆致で書いておけばあまり間違いも起こらないかもしれません。ただし検証可能性以前に、事象に特記性がなければ仕方がないですけどね。commonsの画像の方はやはり、それを根拠に記事を執筆することは難しいでしょう。恐らく、論外です。それはさておき私も時折、「○○の写真」を上梓しますが、「それほんまに○○の写真なん?捏造とちゃうの?」と言われると・・・。「この写真は他の資料に掲載されている写真と矛盾していない」と主張することで、その追求を一部、免れ得る可能性はありますが、本当のところは難しいです。「これは琵琶湖の写真である」でしたら、他の資料に似た風景があれば、証明になるかもしれません。ですが、「この写真がキャプション通り7月下旬の琵琶湖であり、8月上旬のものではないと言うことを証明せよ」と言われたら、どうするんでしょうね。--Hman(会話) 2012年4月12日 (木) 14:21 (UTC)
- ちょっと話がそれているとは思いますが、コモンズは基本的に改変などありのフリーな素材集であすし、コモンズに画像をアップしてそれを根拠に何かを記述するというのではWP:CIRCULARに抵触しますし、コモンズの画像を記事の出典に用いるということは行われていないと思います。画像は、記事の出典ではなく主題理解を助ける一手段ではないでしょうか。その上で画像やキャプションに改変が加えられていないことをどうやって確かめるのか、という問題を考えてみますが、私的に撮影してコモンズにアップした画像と私的に録画して手元にある動画の違いは、他の編集者が内容を確認できるかどうかにあると思います。画像やキャプションの中に、記事の主題にとって重要となる情報があるが真正であるかどうかが確認できない、あるいは記事の主題理解にそもそも役立ちそうにない、というのであれば単にその画像を使わなければいいだけですので。画像はなくとも記事としては成り立つはずです。
- 名前の通った専門家が何人もの編集者が編集に関わっているような評判のよい情報源で「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」と言及することは基本的に出典になります。同じことを誰でも書き込むことができるウィキペディアのノートに匿名の人が書いたとしても、情報の信頼性や重みがまるで違います。出典としたいブログや書籍がウィキペディアと同じルールで記述されている必要はないですし、ウィキペディアで大事なのは、編集者が記述していることが検証可能かどうかなのであって、記述の内容(出典)が真実であるかどうかではありませんので。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 15:49 (UTC)
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- Dojikingさん。まず、基本的な事実を共有したいのですが、TV番組は信頼性に乏しい情報源であるというのは現行の方針ではっきりと謳われています。
一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。
— WP:V#NR
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- 次に、英語版の文書ですが、アーカイブに関しては確かに何も規定されてないですが、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」というのは、結局他の人が客観的に確認する手段がないです。今問題になっているのはテレビ番組を一次資料として使用してよいか、ということだと思いますが、一次資料に関しては以下のように決められています。
信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。
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- 現行の方針文書でこのように謳われているので、「TV番組やそれを私的に録画したものは検証可能性を満たしているとは言えない」という見解は多くの編集者から支持されているとみなすことができると思いますし、実際この議論でもDojikingさんの見解に対して賛意を表明した人はいないです。テレビ番組の検証可能性に関しては過去に何度も議論されているのでそちらも参考にされるとよいでしょう[1]。それから、ガイドラインがどうなっているか、ということと、それが一貫して守られているか、というのは別の問題であって、たとえば駐車違反を取り締まる法律があるだけで駐車違反を根絶できるわけではないですし、また、現状でたくさんの駐車違反があるからといって、それならそれを取り締まる法律がないのだろうとか、そんな法律は尊重しなくてもいいはずだ、ということにはならないです。ウィキペディアでは記事は徐々に改善していけばよい、という考えであって、TV番組は出典としないという一貫した扱いが編集者の間に徐々に浸透していけばよいのであって、何かの方針に反している記述が一斉に除去されるというようなことはウィキペディアでは普通起こらないです。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 13:04 (UTC)
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- 根本的に認識が相違している箇所が2点有ります。まず、「TVで観た」と「TV番組」は同義では有りません。「Webで見た」と「公式サイトに載せられている」が全く異なる位置付けであるのと同様に、単に「TVで観た」と言う得体の知れない証言と、記事の題材そのものである、素性の明らかなPGの中で描かれた内容とでは、全く意味合いが違います。次に、例えば何々と言う放送作品について、記事の対象として扱うのは、個人の録画では無く本放送です。Aさんの保有している録画に関する記事を作成している訳では無く、本放送された放送作品の記事を作成する際の検証材料として、Aさんが検証物として録画を使用するのです。つまり、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」という事を検証するのでは無く、記事に書かれた内容の真偽を確認する為に、録画を参照する訳です。従って、「結局他の人が客観的に確認する手段がない」のでは無く、他の人が検証する際に使用する手段が録画なのです。これは、出展として余り異論の出ないであろう活字媒体にしても同じ話で、Bさんが所有する、唯一無二の書籍の個体の記事を書く訳では無く、その書籍に於いて語られた作品の内容を記事として書く訳で、それを検証する為に、Bさんは保有する書籍を参照する訳です。これらに関しての認識が曖昧なままでは、確かに「TVは出典に相応しくない」との漠然とした結論に至るかもしれませんが、各々の位置付けを適切に認識しさえすれば、自ずと答えは違ってくるはずです。--Dojiking(会話) 2012年4月12日 (木) 15:42 (UTC)
- うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばDojikingさんが録画したものを出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければDojikingさんの家に出かけて行って録画したものを見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)
- うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばBugandhoneyさんが所有する書籍を出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければBugandhoneyさんの家に出かけて行って所有する書籍を見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。と言う文章が正しいと思いますか。--Dojiking(会話) 2012年4月13日 (金) 05:44 (UTC)
- (呆)図書館と言うものがこの世にはあってだな。--125.2.47.93 2012年4月13日 (金) 15:36 (UTC)
- うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばBugandhoneyさんが所有する書籍を出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければBugandhoneyさんの家に出かけて行って所有する書籍を見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。と言う文章が正しいと思いますか。--Dojiking(会話) 2012年4月13日 (金) 05:44 (UTC)
- うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばDojikingさんが録画したものを出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければDojikingさんの家に出かけて行って録画したものを見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)
- 根本的に認識が相違している箇所が2点有ります。まず、「TVで観た」と「TV番組」は同義では有りません。「Webで見た」と「公式サイトに載せられている」が全く異なる位置付けであるのと同様に、単に「TVで観た」と言う得体の知れない証言と、記事の題材そのものである、素性の明らかなPGの中で描かれた内容とでは、全く意味合いが違います。次に、例えば何々と言う放送作品について、記事の対象として扱うのは、個人の録画では無く本放送です。Aさんの保有している録画に関する記事を作成している訳では無く、本放送された放送作品の記事を作成する際の検証材料として、Aさんが検証物として録画を使用するのです。つまり、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」という事を検証するのでは無く、記事に書かれた内容の真偽を確認する為に、録画を参照する訳です。従って、「結局他の人が客観的に確認する手段がない」のでは無く、他の人が検証する際に使用する手段が録画なのです。これは、出展として余り異論の出ないであろう活字媒体にしても同じ話で、Bさんが所有する、唯一無二の書籍の個体の記事を書く訳では無く、その書籍に於いて語られた作品の内容を記事として書く訳で、それを検証する為に、Bさんは保有する書籍を参照する訳です。これらに関しての認識が曖昧なままでは、確かに「TVは出典に相応しくない」との漠然とした結論に至るかもしれませんが、各々の位置付けを適切に認識しさえすれば、自ずと答えは違ってくるはずです。--Dojiking(会話) 2012年4月12日 (木) 15:42 (UTC)
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- 脈絡の無い発言は無視するとして、改めて説明させて頂きますが、上で書いた内容は少しフザけて見えたとしても、言っている事は変わりません。まず、繰り返しになりますが、出典は録画では無く本放送です。例えば、仮に「三国志」の単行本をAさんが個人的に所有していたとして、その単行本を見て記事を書いたとします。その場合の出典は、あくまでも「三国志」であり、「Aさん個人所有の単行本」では無いはずです。また、手元に単行本を所有するAさんが、わざわざ図書館や、ましてや国会図書館に出向いて検証を行うとは考えられません。であるならば、手元の単行本を元に検証を行うのも、手元の録画を元に検証を行うのも、全く同一の行為です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と連呼するのは、明らかに印象操作です。更に言えば、Wikipediaの執筆や検証だけの為に、国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者は、極めて少数派だと思います。従って、それが書籍であろうが放送作品であろうが、現実的には「個人所有の」ソースを使用していると考えるのが妥当です。この様な現実にも関わらず、公的なコピーが参照できい事だけを盾に、頑なに検証可能性を否定し、Kanoharaさんの算式に倣えば、都内だけでも1万本の存在が期待出来る録画を全て無効とする考え方は、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこそのものです。--Dojiking(会話) 2012年4月13日 (金) 20:41 (UTC)
月1回以上国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者から一言。もしかして、国会図書館の蔵書は国会図書館でしか閲覧できないとお思いですか?資料の状態が悪いものや、雑誌・DVD・マイクロ化資料などの一部資料を除き希望すれば地元の図書館で閲覧できます(図書館によっては送料が必要な場合があります)。また遠隔複写申し込み制度などにより資料の複写を受け取ることも可能です。--Vigorous action (Talk/History) 2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)- いや、だから今話しているのは、Aさんの手元にその書籍がない場合なんですけど。内容を確かめたかったら、Aさんはその書籍を図書館や書店で探すことになりますよね?記事で引用されている書籍がどの図書館や書店でも利用できないのであれば検証可能だとはいえない、ということなんですけど。本だったら、都内だけで1万部もあるのに、図書館や書店で見つけることができないというのでは探し方が悪いのだろう、ということになるとは思いますが。--Bugandhoney(会話) 2012年4月13日 (金) 21:53 (UTC)
- 脈絡の無い発言は無視するとして、改めて説明させて頂きますが、上で書いた内容は少しフザけて見えたとしても、言っている事は変わりません。まず、繰り返しになりますが、出典は録画では無く本放送です。例えば、仮に「三国志」の単行本をAさんが個人的に所有していたとして、その単行本を見て記事を書いたとします。その場合の出典は、あくまでも「三国志」であり、「Aさん個人所有の単行本」では無いはずです。また、手元に単行本を所有するAさんが、わざわざ図書館や、ましてや国会図書館に出向いて検証を行うとは考えられません。であるならば、手元の単行本を元に検証を行うのも、手元の録画を元に検証を行うのも、全く同一の行為です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と連呼するのは、明らかに印象操作です。更に言えば、Wikipediaの執筆や検証だけの為に、国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者は、極めて少数派だと思います。従って、それが書籍であろうが放送作品であろうが、現実的には「個人所有の」ソースを使用していると考えるのが妥当です。この様な現実にも関わらず、公的なコピーが参照できい事だけを盾に、頑なに検証可能性を否定し、Kanoharaさんの算式に倣えば、都内だけでも1万本の存在が期待出来る録画を全て無効とする考え方は、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこそのものです。--Dojiking(会話) 2012年4月13日 (金) 20:41 (UTC)
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- あ、スミマセン。月に数回程度でコアな利用者と呼ぶとは思っておらず、Wikipediaの為だけに、暇さえ有れば毎日の様に通い詰めている方を想定していました。これは私の認識不足でしたので今後は気を付けます。
- さて、何故Aさんでなければならないのでしょうか。別にBさんでもCさんでも構いませんし、Aさんが図書館で見た本でも構いません。だったとしても、「Aさんが図書館で見た本が出典」では無く「三国志が出典」です。にも関わらず「個人の録画が出典」と連呼するのは間違いだし、印象操作ですよと申し上げているのですが、言っている意味が伝わらないのでしょうか。--Dojiking(会話) 2012年4月14日 (土) 06:28 (UTC)
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- うーん、もう同じことしか書けないですけど、ある書籍に関して、Aさんが図書館で読んだ場合、BさんもCさんも同じ図書館か別の図書館や書店で同じ書籍を参照することができますが、ある動画に関して公に利用可能なコピーがない場合、それをたまたま録画していたAさんは参照することができますが、録画していなかったBさんやCさんは内容を参照することができない、ということなんですけど。検証可能性というのは誰でも検証することができる、ということなので。--Bugandhoney(会話) 2012年4月18日 (水) 13:05 (UTC)
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- どうしても情報の入手性の話に持って行きたい様に読めますが、私は、放送作品に限って「録画が出典」と連呼するのは「印象操作」ですよと申し上げているだけなのですが、何故、意図が伝わらないのでしょうか。出典は「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」本放送であり、録画は、限りなく本放送と近似したものではありますが、あくまでも本放送の記録であり、出典では無く、検証材料もしくは参考資料です。例えばAさんが、東京スカイツリーの写真を撮影し、それを見ながら記事を書いたとしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないでしょう。この場合の出典(一次資料)は、あくまでも東京スカイツリーである事は、私が説明するまでも無く、誰にでも理解できる簡単な話です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と表現する事は、私的な所有物を出典とした記事であると印象付けようとする、意図的な「印象操作」なので差し控えて下さいと申し上げているのです。もし、「東京スカイツリーの写真は誰でも撮影できるから」と言う的外れな反論を御用意であれば、世界貿易センタービルにでも置き換えて頂いても構いませんが、何れにしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないはずです。なお、やたら電波電波と連呼されている方も見えますが、誰も(それ系の研究室等は知りませんが)TV画面で電波を観ている人は居ませんし、電波の記事を書いている訳でも有りませんので、こちらも明らかに本放送の軽視を意図した「印象操作」なのが見え見えですので、自重頂ければと思います。
- それと、発言のついでに申し上げますと、「誰でも検証可能」を曲解されていませんか。この「誰でも検証可能」は「全人類が検証可能」を意味しているのでは無く、「特定の関係者等で無い任意の第三者が検証可能」である事を意図しており、総人口の全てが検証できなければならないと言っているのではありません。もし、全人類が検証可能である事を意味しているのであれば、極端な話、「目の不自由な人は記事が読めないし資料も読めない」だから「全ての記事は検証可能性を満たしていない」と言う、無茶苦茶な屁理屈が成り立ってしまいます。目が不自由と言うのは、あくまでも「その人の事情」であり、そうでない方々の手で相互に検証を行う事が可能であれぱ、検証可能性を満たしていると考えるのが普通です。放送作品の検証可能性も全く同じ話で、録画を所有していないのは、あくまでも「その人の事情」であり、下でKanoharaさんも述べられている通り、録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません。ニュースやバラエティは厳しいと思いますので除外して良いと思いますが、高い録画率の期待できるドラマやアニメに関しては、充分に検証可能であると考えるのが妥当であり、それを否定する事は、間違っても支持を得られる様な考え方では有りません。--Dojiking(会話) 2012年4月19日 (木) 14:53 (UTC)
- 再度お邪魔しますがDojikingさんのおっしゃっていることは再度根本から考える価値が十分あると思います。In the first place, WP:V#NRが解釈の余地を残しすぎなんですよね。数百万人が実際見た、あるいは録画したものを「事実確認の機能を欠く」と片付けるのは明らかに「フツー」の感覚とかけ離れているでしょう。「だから見てなかった人はどうやって検証するんだ」というのはネットが普及する遙か前、親戚・友人に問い合わせたり地方の広報誌などで「どなたか録画した人いませんか?」ってやりとりがあったものですが……。(法律云々は一旦おいて)「その録画が改変されている可能性は」といいだしたらもはや出版物だって同じことがいえるでしょう。(それとも図書館に存在するものだけを信頼できる出典にする?)で、ここでベクトルを変えます。「この番組でこんなすごい内容が放送された」となればメディアがそれなりに反応するからそもそも出典には困らないはずです。ということは数百万人が認知していることでもメディアが喰いつかなかったものは「検証云々」の前に「特筆性がないということでは?」という気がしたのですがDojikingさんはいかがお考えでしょうか。整理しますと「2次言及がないテレビ放送は検証可能性以前にWikipediaに載せるだけの特筆性がないのでは?」ということです。井戸端のタイトルとはかけ離れますが「載せる/載せない」という視点で見れば同様ではないかと思います。--にの(会話) 2012年4月19日 (木) 15:44 (UTC)
コメント ビデオテープ、DVD、BDなどで販売された実績も予定もないテレビ番組は、検証不能とは言えないものの合法的な事実確認が困難な「信頼性に乏しい情報源」ですので、{{信頼性要検証}}を貼って二次資料を求めるべきかと考えます。映像ソフト化の予定があるものは、いずれ時間が解決してくれることが保証されるため、{{信頼性要検証}}は不要でしょうけれど。- 日本においては建築物に著作権は生じないためスカイツリーの写真を見せたりすることは自由ですが、著作権が失効していないテレビ番組の録画(私的複製)を家族以外の誰かに見せることは著作権法で保証された私的利用の範疇を逸脱し、法的な問題があります。編集者間で検証ができたとしても「非合法な方法で検証できた」ことを大っぴらに公言することは、色々な意味で法的リスクが存在するため、検証できたことを報告できないし、ウィキペディアとしても非合法な活動を推奨する訳にはいかないという問題があります。--Kanohara(会話) 2012年4月19日 (木) 16:54 (UTC)
- 再度お邪魔しますがDojikingさんのおっしゃっていることは再度根本から考える価値が十分あると思います。In the first place, WP:V#NRが解釈の余地を残しすぎなんですよね。数百万人が実際見た、あるいは録画したものを「事実確認の機能を欠く」と片付けるのは明らかに「フツー」の感覚とかけ離れているでしょう。「だから見てなかった人はどうやって検証するんだ」というのはネットが普及する遙か前、親戚・友人に問い合わせたり地方の広報誌などで「どなたか録画した人いませんか?」ってやりとりがあったものですが……。(法律云々は一旦おいて)「その録画が改変されている可能性は」といいだしたらもはや出版物だって同じことがいえるでしょう。(それとも図書館に存在するものだけを信頼できる出典にする?)で、ここでベクトルを変えます。「この番組でこんなすごい内容が放送された」となればメディアがそれなりに反応するからそもそも出典には困らないはずです。ということは数百万人が認知していることでもメディアが喰いつかなかったものは「検証云々」の前に「特筆性がないということでは?」という気がしたのですがDojikingさんはいかがお考えでしょうか。整理しますと「2次言及がないテレビ放送は検証可能性以前にWikipediaに載せるだけの特筆性がないのでは?」ということです。井戸端のタイトルとはかけ離れますが「載せる/載せない」という視点で見れば同様ではないかと思います。--にの(会話) 2012年4月19日 (木) 15:44 (UTC)
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(Dojikingさんへ)公に利用可能なコピーがないのは本人の責任じゃないでしょう。実際、それを用意しているテレビ局はありますし。「自分がテレビで見たときと違うことが書いてある!」と指摘した人に対して、録画しなかったおまえが悪い、と言われても納得する人はいないと思いますが。「録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません」というのは、論争を呼ぶような発言があったニュース番組と違って、シリーズ物のテレビドラマでは記述をめぐって揉め事が起きにくいだろう、というだけの話であって、実際には三点リーダかピリオド三つかでもめている現状では説得力があるとは思えませんが。たとえば、動画よりもはるかに解釈の入りづらい活字媒体であり、なおかつ録画テープよりもはるかに数多くのコピーが出回っている新聞記事を用いていても、内容の解釈や引用の正確性をめぐってもめるということはざらにあります(私が編集に関わった例ノート:野田佳彦#人物、性格、趣味など)。検証可能性というのは、検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう、などという大雑把なことではないですよ。--Bugandhoney(会話) 2012年4月19日 (木) 18:32 (UTC)
- 特筆性に関しては、概ね御指摘の通りである様に思います。必ずしもイコールとなるかと言えば、様々な要因が絡む事から、そうでも無いとは思いますが、大筋で言えば、外部のメディアが触れていない些末な話題は、特筆性も薄いとの判断で問題無いと思います。ただ、公式ガイドブック等に詳細に書かれてるからと言って、それ全てを載せる事にはならないと思いますし、逆に、例えば最近なら家政婦のミタ辺りを思い描けば判る様に、視聴率や「承知しました」の回数ばかりが記事になり、(意図的に避けているのかもしれませんが)特筆性の高い内容には触れられていない事も有ると思いますので、個々の項目毎の判断も必要かと思います。実際には、多くの利用者の取捨選択によって、載せるべき項目が絞り込まれ、過不足の無い状態に遷移していく場合が多いですし、自ずと特筆性の有る項目だけが生き残るであろうとも考えますが、如何でしょうか。まあ、登場人物欄に人物の行動を逐一加筆して、小学生の日記帳の様になっている記事も見掛けますし、雑多な項目だと言ってバッサリと切ってしまうのも、それなりに勇気の要る行為だと思いますので、単純な話で無いのも事実では有りますが…。
- 次に、違法な検証手段に関しては、気にしなくても良いのではないでしょうか。もちろん、ここで言う気にしないとは、問題が無いと言う意味では有りませんし、「違法な手段で検証しました」と公言していれば、それを排除する必要も有りますが、原則としては性善説のスタンスで良いのではと考えます。例え活字媒体だったとしても、不正に入手したコピーや電子書籍を参照している可能性だって有る訳ですし、法的にグレーやクロの状況を想定すれば、それこそキリが無い様に思えます。そもそも、執筆者が違法なソースを用いて検証していたとしても、それを知る術は基本的に無いので、判別する事自体が不可能(だからと言って不問にせよと言う意味では無いですよ)なのが現状ではないでしょうか。
- 最後に、どうもBugandhoneyさんとは、根本的な考え方に大きな乖離を感じます。始めに申し上げておきますが、私は「録画を所有していないのは、その人の事情」と申し上げましたが、「公に利用可能なコピーがないのは本人の責任」なんて、一言も言っておりませんし思ってもいませんので、デタラメな発言は御遠慮頂きたいと思います。さて、揉め事が起きるのは、すなわち、それだけ多くの人が異なる視点や考え方で検証を行っていると言う事であり、決して悪い事ではありませんし、それを以て説得力が無いと考える意見こそ説得力が有りません。また、「録画しなかったおまえが悪い」と言われれば、少なくとも私なら納得しますし、誰だって確たる出拠が無ければ言い張る事はできませんので、納得するしかないでしょう。検証材料を手にしていないのに、検証しようと言う発想は有り得ませんし、それは放送作品に限った話でも有りません。ただし、本放送を視聴した際の記憶が鮮明で、絶対に間違いが無い自信が有れば、それを主張する可能性は有りますね。なにしろ、出典は本放送であり、録画ではありませんから。次に、言い回しが少しアレな感じもしますが、検証可能性が「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」で無いのであれば、それでは一体何が検証可能性なのでしょうか。不特定多数の任意の第三者の目で、「この記事は確かに事実と相違無い」事を検証する(査読を外部に求める)事で成り立っているのがWikipediaだと思っていますが、違うのでしょうか。
- 補足ですが、元の議論の論点は「三点リーダかピリオドか」では無く、「表記が下詰めか中寄せか」ですよ。本放送が下詰めで、公式サイトが中寄せであった事から、どちらに準ずるべきなのかに始まって、本放送は検証可能か否かに至っていると言う次第です。もっとも、一部に独自研究(想像による文字やフォントの特定)を根拠とした主張が存在していた為、議論は混沌とした解り辛い内容になっており、誤解が生じても無理は無いのですが。--Dojiking(会話) 2012年4月20日 (金) 14:36 (UTC)
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- すみません。横槍ですが。検証可能性は「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」とは全く違いますよ。「不特定の人が、(ある程度のやる気とほんの少しの金銭的負担を負えば)”記述の正しさをあとから検証することが出来る”」ということだと、私は思っています。散々言われていますが、書籍や新聞による出典が検証可能性を担保するのは、日本語で書かれたものであれば国立国会図書館にいけば誰でも、いつでも記述の正しさを確認することができるからです。対して、DVD化されていない番組については、例えば10年、20年経った後にとある人が記述の正しさを確認しようとしても、検証することが「確実にできる」と言えるでしょうか。20年も経ってしまえば個人所蔵の映像もかなり数が減っているでしょうし、人の記憶なんて曖昧になってしまいます。--133.86.235.200 2012年4月23日 (月) 07:13 (UTC)
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- 例えばビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等を想像すれば解る様に、20年先にDVDを誰もが参照可能であると言う保証は有りません。また、何かの作品の公式サイトが、20年先にも存在していると言う保証も有りません。もちろん、録画や記憶が残っている保証も有りません。従って、永続的な検証可能性に関しては、(それはそれとして議論の意義は有りますが)この場の議論に混ぜ込んでも意味は無いでしょう。それに、映像ソフト化されていない(予定も無い)作品に関しては、検証可能性を満たさないと言う見解で一致している様に思いますので、敢えて引き合いに出すのも無意味でしょう。また、先にも述べていますが、「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」と言う言い回しは、確かに聞こえが良く無い(私からすれば印象操作の意図を感じます)ので、偏見を生むと思いますが、要は前述の通り、「不特定多数の目で記事の内容が事実と相違無い事を検証する(査読を外部に求める)事」であると私は考えていますし、明快な誤りでは無いとも信じています。ちなみに、「ほんの少しの金銭的負担を負えば」の部分に関しては、ケースバイケースですし、情報の入手性の話ですので、この場での言及は避けておきます。--Dojiking(会話) 2012年4月23日 (月) 11:47 (UTC)
- うーん、前に私は「発言を注意深く読んで」と、また「アクセシビリティあたりが(中略)異なる記述です」と書いていたんですが、まったく理解頂けていなかったのですね。内容に関する三大方針としてWikipedia:中立的な観点・Wikipedia:独自研究は載せないそしてWikipedia:検証可能性がありますが、これらは密接に関わりつつも独立した方針です。翻ってアクセシビリティは検証可能性の内部項目であり、独立した方針ではないんです。もしアクセシビリティがDojikingさんの言う「情報入手性」なのだとしたら検証可能性とは切り離せないことになる、切り離して議論するなら該当する方針を示してくださいと述べたのですが未だにご理解頂いていなかったとは残念です。--Ritis(会話) 2012年4月23日 (月) 15:16 (UTC)リンクtypo--Ritis(会話) 2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)
- 確かに、検証可能性とその情報のアクセスしやすさがごっちゃになっていて、Dojikingさんになかなか話が通じない、という気がしますね。盲目の人なり、フロッピーディスクなり、外国の図書館なり、アクセスしづらいだけであって検証可能なことには変わらないと思いますけど。--Bugandhoney(会話) 2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)
- うーん、前に私は「発言を注意深く読んで」と、また「アクセシビリティあたりが(中略)異なる記述です」と書いていたんですが、まったく理解頂けていなかったのですね。内容に関する三大方針としてWikipedia:中立的な観点・Wikipedia:独自研究は載せないそしてWikipedia:検証可能性がありますが、これらは密接に関わりつつも独立した方針です。翻ってアクセシビリティは検証可能性の内部項目であり、独立した方針ではないんです。もしアクセシビリティがDojikingさんの言う「情報入手性」なのだとしたら検証可能性とは切り離せないことになる、切り離して議論するなら該当する方針を示してくださいと述べたのですが未だにご理解頂いていなかったとは残念です。--Ritis(会話) 2012年4月23日 (月) 15:16 (UTC)リンクtypo--Ritis(会話) 2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)
- 例えばビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等を想像すれば解る様に、20年先にDVDを誰もが参照可能であると言う保証は有りません。また、何かの作品の公式サイトが、20年先にも存在していると言う保証も有りません。もちろん、録画や記憶が残っている保証も有りません。従って、永続的な検証可能性に関しては、(それはそれとして議論の意義は有りますが)この場の議論に混ぜ込んでも意味は無いでしょう。それに、映像ソフト化されていない(予定も無い)作品に関しては、検証可能性を満たさないと言う見解で一致している様に思いますので、敢えて引き合いに出すのも無意味でしょう。また、先にも述べていますが、「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」と言う言い回しは、確かに聞こえが良く無い(私からすれば印象操作の意図を感じます)ので、偏見を生むと思いますが、要は前述の通り、「不特定多数の目で記事の内容が事実と相違無い事を検証する(査読を外部に求める)事」であると私は考えていますし、明快な誤りでは無いとも信じています。ちなみに、「ほんの少しの金銭的負担を負えば」の部分に関しては、ケースバイケースですし、情報の入手性の話ですので、この場での言及は避けておきます。--Dojiking(会話) 2012年4月23日 (月) 11:47 (UTC)
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- また話がこじれてしまうと大変恐縮なのですがprincipalに従うとすると視聴率が30%を超えた番組でも定期的再放送がない限り「出典無効」ですよね?ところが視聴率1桁でもその番組をガジェット通信あたりがmentionすればさしあたりのrequirementを満たす……と。(少なくても「無効」ではないですよね)このあたりがどうにも引っかかって仕方ありません。確かにprincipalを尊重するというルールは完璧だとは思うのですが「常識」からはどえらい乖離を感じます。で、「じゃあどうすんだよオメー」という話なるのですが例えばn回の再放送が決まっている場合は「Wikipedia検証委員会」なるものが「こういう内容の放送をconfirmした」みたいなことはできないのかなと。時が経って検証を希望する人がいたら「検証委員会」にcontactしてメンバーのおうちにお邪魔して視聴、みたいな。まさか録画した人の家に行って見るだけで違反にはならないですよね?「何言ってんだこいつ」と思われたら恐縮の限りですが現実可能性と法律を天秤にかけるとこうなってしまうのかなと思った次第です。(もちろん上記は「想像」の話なので提案でもなんでもありません)--にの(会話) 2012年4月24日 (火) 09:44 (UTC)
- ウィキペディアは基本的に誰でも(その気になればそれなりに容易に)検証可能である、というのが根っこです。定期的再放送が約束された番組などほとんど無く、というかそういうものならDVDでも二次資料でもなんでも有るはずであり、また一般人の所有物を探し歩くなどは明らかに方針の精神に反しています。あまり「何故かDVDも二次資料も全く皆無だが定期的再放送が有れば・・・」などと言った超レアケースでのウルトラCにこだわると本質を見失うんじゃないでしょうか。ガジェット通信やJ-CASTが「信頼できる情報源」であるかどうかは、また別の話でしょう。--Hman(会話) 2012年4月24日 (火) 10:13 (UTC)
- Dojikingさんご自身が検証可能性に記載されている文献へのアクセスを情報入手性だと述べられているのですから、「情報入手性」は中立的な観点や独自研究は載せないの様に別個の方針ではなく検証可能性とは切り離せないものだと述べているのですよ。Dojikingさんは別のものだと思っているようですが、他の方から同様の意見が出たことは少なくともこの議題上では無いようです。Dojikingさん以外の方で、情報入手性は検証可能性と切り離して考えることだと考えている方がいれば、私の意見に異論を頂戴したいと考えます。--Ritis(会話) 2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)
- また話がこじれてしまうと大変恐縮なのですがprincipalに従うとすると視聴率が30%を超えた番組でも定期的再放送がない限り「出典無効」ですよね?ところが視聴率1桁でもその番組をガジェット通信あたりがmentionすればさしあたりのrequirementを満たす……と。(少なくても「無効」ではないですよね)このあたりがどうにも引っかかって仕方ありません。確かにprincipalを尊重するというルールは完璧だとは思うのですが「常識」からはどえらい乖離を感じます。で、「じゃあどうすんだよオメー」という話なるのですが例えばn回の再放送が決まっている場合は「Wikipedia検証委員会」なるものが「こういう内容の放送をconfirmした」みたいなことはできないのかなと。時が経って検証を希望する人がいたら「検証委員会」にcontactしてメンバーのおうちにお邪魔して視聴、みたいな。まさか録画した人の家に行って見るだけで違反にはならないですよね?「何言ってんだこいつ」と思われたら恐縮の限りですが現実可能性と法律を天秤にかけるとこうなってしまうのかなと思った次第です。(もちろん上記は「想像」の話なので提案でもなんでもありません)--にの(会話) 2012年4月24日 (火) 09:44 (UTC)
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インデント戻します。IP変わってますが、上の横槍です。容易である必要はないとは、例えば出展となる書籍が国立国会図書館一館にしかない場合なんかのことですよね。確かに近所の書店や図書館にちょっと行って手に入るというわけではありません。しかし、複写依頼を通せば日本にいる限りは誰でも検証可能です。一方で、テレビ放送の場合、「後から」「本放送を見ていない誰かが」検証しようとした場合、それは果たして可能なのでしょうか?容易と不可能の間には大きな溝があるように思うのですが。それとも、Dojikingさんの仰る「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」なのでしょうか?--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 13:23 (UTC)
- その「誰でも」と「本放送を見た不特定多数」の違いが、Dojikingさんにはなかなか伝わらないのですよ。Dojikingさんは実際的な話をしているのだと思います、たぶん。国会図書館にある資料は確かに誰でも参照することができるが、実際にはごく少数の人しか参照しようとはしない。それに対して、テレビ放送は誰でも参照することはできないが、実際には多くの人が録画していて手軽に参照することができる、というような。これは単に資料の参照しやすさを、簡単に参照することのできる人の数で測っているだけであって、WP:Vとはそういうことではない、ということなのですが...。
- (にのさんへ)一次資料(テレビ放送)を基にして記述できないというのはそのとおりです。ただ、視聴率30%の番組の場合、二次資料はふんだんにあると考えてよいでしょう。にんげんだものを加筆したときに、そのことがよく分かりました。ここから先は個人的な考えですが、一次資料を基づいてこと細かに記述してもファンサイトみたいにしかならなくて、あるテレビ番組という主題の理解を助けるとは思えないです。百科事典を目指すんだったら二次資料メインでいいんじゃないかなと。--Bugandhoney(会話) 2012年4月24日 (火) 13:58 (UTC)
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- 私が南極に赴いて、世界中の文献に載せられていないコウテイペンギンの知られざる生態を発見したとします。同じ事は「誰でも」できますので、この事を記事に載せても、文句無しに検証可能性を満たしています。もちろん、南極でコウテイペンギンの生態を見ていない、見に行く気も無い人々にとっては、検証可能であっても検証はできません。ちなみに、これは冒頭の「検証する手段を保有している人が検証する」にも関わりますが。逆に、全国ネットであれば、場合によっては数千万人の人々の目に触れた本放送が、そして録画率が0.1%であったとしても、数万の存在が期待できる録画が、そして追って映像ソフトもがリリースされる予定の作品が、検証可能性を満たしていないと主張されています。これは明らかに、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこです。あくまでも常識的な見地に立った上で、常識的に物事を考えたとして、冒頭のコウテイペンギンの記事は、検証すらする事無く、即座にリバートされるでしょうね。皆さんの言う「誰でも」検証する事が可能な事実であるにも関わらず、です。私は、例えルールと常識の尊重の記載が無くとも、Wikipediaの原則の全ては、常識と言う世間一般のルールから逸脱しないレベルで存在していると思っています。南極でコウテイペンギンの生態を調査しなければ検証できない事柄が、常識的に考えて、検証可能性を満たしているとは(フツーの日本人の立場として)考えられません。同様に、数千万人の観た(あくまでも素性の明らかなものに限定しても良いですが)放送作品の検証可能性を、観ていない人が存在するから、と言うだけの理由で否定する事は、常識の範疇を完全に逸脱しています。また集中砲火を浴びそうですが、誤解されるのを覚悟の上で明言すれば、「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」もしくは「録画を(合法的に)観る事が可能な不特定多数」および「その内容を伝え聞く事で確認できる不特定多数」で良いと思っています。録画は確か、家庭内での視聴は問題無いはずなので、3~5人家族の御家庭に録画が1本有れば、単純に検証可能な方は3~5倍に膨らみますので、先ほどの算式で言えば10万を超える人々が検証可能と言えます。これでも不足なのであれば、それ以上の人数が、南極でコウテイペンギンの生態を調査する事の実現性を立証して頂きたいと思います。私は、この場の議論に於ける「不特定多数」の認識をお話させて頂きました。逆に伺いたいのですが、皆さんの仰る「誰でも」とは、一体どの程度の範囲を指しているのでしょうか。ちなみに、「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」と言うのは回答になっていませんので御遠慮下さい。--Dojiking(会話) 2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)
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- Dojikingさん、Dojikingさん。世界中の文献に乗せられていないペンギンの知られざる生態だったら、独自研究ですよ。なぜ独自研究かといえば、検証可能な信頼出来る情報源がないからです。「見ればわかる」は基本的にwikipediaでは通用しません。たとえ他の編集者が南極まで行ってDojikingさんと同じ事実を確認できたとしても、やはり記事に追加することはできないのです。ですから、これは検証可能性を満たしていません。検証可能性は、再三申し上げておりますように、基本的に「後から」「誰でも」検証が可能である、ということを意味します。回答になってないと先回りされてしまいましたが、本放送を見ていない人が検証できないのであれば、検証可能性が満たされている、と言うことはできません。たとえ全世界で50億人が見た放送であったとしても、日本国民全員が目にしたものであっても、時間が経ってからその事実を再確認できる信頼できる情報源が出てこない限り、検証可能性は満たされないのです。いくら前置きされようと、これはWikipediaにおける基幹となる方針ですから、これ以外の回答はありえませんよ。常識、とおっしゃりますが、少なくとも学術論文ではそれが常識ですよ。常識は人によって異なる、ということをご理解ください。共通認識を作りにくいからこそ、否定出来ない検証可能な情報源というものが必要となるのですから。--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 17:08 (UTC)
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- 例えが悪いというのには同意させて頂きます。。検証可能性と独自研究をしないを最大限に重んじるならば、入手性の最悪な、引用されていない一次資料は使うべきではありません。その媒体がなんであってもです。「常識的」に考えて、他の文献に引用されていない一次資料に重要性があることは稀ですし(被引用数で論文や資料の重要性が語られることが多いのはご存知かと思います)、WP:NORから鑑みてwikipediaに載せるのには適切とはいえません。真に重要であるのであれば、近いうちに二次資料が出てくるでしょうし、それを待って編集したほうが真実性の点でも検証可能性の点でも優れているのは明らかでしょう。後、下でBugandhoneyさんのおっしゃっていることが少なくとも文系の研究分野では「常識」でしょうし、wikipediaでもそれに準じているのだと思っています。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 11:40 (UTC)
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- 使えないという点では同じですね。二次以下の資料で、Dojikingさんがおっしゃるような「特定の限られた人」しか手に入れられない資料の場合は、、こんどはWikipedia:信頼できる情報源に対する逸脱です。二次資料というのは一般に広く知らしめるためにあるのですから、どうして特定の人しか入手できない、たった一部しか存在しない資料について「信頼出来る二次資料」であると認定できるのでしょうか?それでしたら、私が手元に書いたメモ書きも二次資料としての効力を持つことになってしまいますよ(どの時点で信頼出来る二次資料になるのか、という野暮はやめてくださいね。砂山のパラドクスです)。大体ご意見がわかりましたのではっきり言わせて頂きますが、Dojikingさんの仰ることが伝わっていないわけではないのです。伝わっているのですが、共感することができないのです。なぜなら、Dojikingさんのご主張、常識が「Wikipediaというコミュニティの内部」では誤っているからです。どうかどうしたら伝わるのか、などという無駄な努力をするようなことをせず、誠心にここまでの議論とWP:V、WP:NOR、WP:RSをお読みになって、どんなにご自身の常識から外れていたのだとしても「wikipediaではこうなのだ」ということをご理解いただきたいと思います。長々失礼いたしました。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 15:46 (UTC)
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- (Dojikingさんへ)それはまた、「一人vs.十万人超」という人数の話になってますよね。WP:Vは人数の話ではないです。WP:SOURCEACCESSの趣旨は、手軽に資料を参照することのできる人数は検証可能性を満たすための条件や制約にはならない、ということです。「誰でも」は、ずばり「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」です。WP:Vはそうとしか読めないです。もっと具体的に言うと「記事にある記述を出典となっている資料で確認したい任意の読者」です。つまり、たとえば「Bugandhoney」というユーザーです。私にも出典の内容を確認する手段がないとだめだということです(記述した編集者に問い合わせる以外の方法で)。--Bugandhoney(会話) 2012年4月24日 (火) 17:25 (UTC)
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- それは不可能ですよ。Bugandhoneyさんの御意見は、一見マトモそうに見えますが、言い方を変えれば、例えば私が検証できない(出典や検証資料を参照できない)内容は、全て検証可能性を満たさないと仰っているのですよ。繰り返しますが、もっと世の中の常識で物事を考えて下さい。--Dojiking(会話) 2012年4月25日 (水) 07:53 (UTC)
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コメント ううむ、やはり「後から検証したくなっても、建前上は誰にでも合法に検証できる」のと「後から検証しようと思っても合法的に検証できる者が限られる」のとでは、決定的な溝があるのではないでしょうか。- 古本は合法的に売買したり図書館で借りたりできますが、私的な目的で録画された放送番組は合法的に貸し借りできないため、検証に参加できるのはその放送日に録画をセットしていた人に限られます。「建前上は誰でも見ることができる」「建前上は誰にでも見ることができてはいけない」という条件は、明らかに矛盾するでしょう。あまり例え話に深入りすると話がややこしくなりますが、「南米の奥地に唯一存在する原書」に例えるなら、その地域の言語を勉強し、旅費を稼ぎ、大金を支払って渡米し、現地ガイドを雇って、生命の危険を乗り越えて奥地にたどり着き、閲覧する……というところまで、全て合法的に行うことができるなら建前上は検証可能でしょうけれど、一方、その原書に触れるためには特定の部族の血筋を引いていなければ立ち入ることができない聖地を通り抜けなければならない、といった場合には検証不可能である、といったことになるかと思います。--Kanohara(会話) 2012年4月25日 (水) 09:10 (UTC)
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- (Dojikingさんへ)何が「不可能」なのかがちょっと分からないのですが、その場合は、私もDojikingさんも検証できるようなことだけ書けばいいのであって、ウィキペディアではそのようなポリシーのもと、いずれの記事も基本的にはそのようなことしか書いてないと思いますが。WP:Vの冒頭にあるとおり、『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」』ですから。--Bugandhoney(会話) 2012年4月25日 (水) 17:50 (UTC)
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(インデント戻し)Dojikingさんの2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)の発言ですが、少なくともDojikingさんが言及されたような方法で取得した内容をコウテイペンギンに加筆しようとすると、即刻差し戻されることでしょう。学術的な分野においては現地調査で得られた結果は1次資料ですらなく、コウテイペンギンの生態を観察して得られた結果の一つでしかありません。しかるべき学会での査読を経て論文として発表されてようやく1次資料となるかとは思いますが、それでもウィキペディアに記述する内容とするためには、単に出典となる論文を明記するだけでは不足で、「生物学者何某によれば・・・・という観察結果が得られた」というような記述方法とせざるを得ないでしょう。なお、少なくとも鉄道関連の記事では、「現地で見た」の類の記述は検証可能性を満たさないとする合意がほぼ成立しています。--VZP10224(会話) 2012年4月26日 (木) 15:25 (UTC)
◆放送番組に関する記述でその放送自身を一次資料とみなすのであれば、信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。この場合放送事業者自身によりアーカイブ等で公開されているかDVD等で発売されていれば『信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態』といえるでしょうが、『どこかの誰かが私的に行った録画』では、量的な多寡以前の問題として一次資料として使えないでしょう。--M_aisawa(会話) 2012年4月28日 (土) 03:29 (UTC)
- 少し話は外れるかもしれませんし、議題提起者は≪DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません≫と書いていますが、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫という観点に絞って、少し気になっているところを書きます。映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください。以下、そういうものがないという前提で。
例えば、流通されなくなったあるいは法改正によって入手が規制された映像メディア(ビデオテープやDVD)は、≪信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない≫≪他の人が客観的に確認する手段がない≫と扱われるべき、ということになるでしょうか?例えば、ある人物記事の(法改正前の)写真集は国会図書館でも閲覧できないのではありませんでしょうか?当該写真集やビデオに撮影秘話のようなものが掲載/収録されていたかどうか私は知りません(手元にもありませんし、入手のしようもありません)。しかし、そういったものを出典として記述していたときに、ある日突然(施行までの半年くらいの有余の後に)、法改正によって当該資料の入手が規制され、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態に変わることがあり得る、ということがこのケースから想像できます。
アニメにしたってそうです。先日某所で意見相違からいろいろと意見交換を行いました。そこでの主意見は、登場キャラクターのキャラクター描写について「DVDを見れば検証可能」(話数などの情報がないと検証困難かもしれないが、ここでの話とは無関係なので省略)というものでした。当該アニメのDVD版が流通しなくなった場合、{{Cite video}}付きの出典が付いていたとしても、当該DVDを≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態になったことを理由に「出典として使えなくなる」ということになるのでしょうか?
つまり、≪DVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。≫とHmanさんが書いていらっしゃいますが、「過去に検証可能であったものが検証可能でなくなることもありそうですが、じゃあ検証可能でなくなった時には一次資料として(に限らず、二次資料としても)成立しなくなるのでしょうか?」という話です。--NISYAN(会話) 2012年4月12日 (木) 15:29 (UTC)- えっと、上にあるある人物の写真集は、NDLでは閲覧どころか複写も可能なようです。--Vigorous action (Talk/History) 2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)
- 同一の内容が繰り返し放送されている場合については、少なくともその放送期間中については「資料」が一般に対して確認可能な状態に置かれており、検証可能といえます。また、放送期間終了後については、リンク切れのウェブページ資料と同様の扱いとなります。(一般論としての放送番組の検証可能性については、判断を留保致します)--4行DA(会話) 2012年4月12日 (木) 15:57 (UTC)
- 何らかの事情で事実上参照不能になったものは、検証可能性や正確性の保証がほぼ潰えているのですから、ウィキペディアの原則に沿って対処するよりないでしょう。また、自己言及・自己参照が認められて居ないことは言うまでもなく、「長くウィキペディア編集者から異論が無い記述だから」という理由だけで記述を維持することも難しそうです。私は広く流通しているDVDはおおよそ、現在または今後数年間は検証可能性を満たすと考えていますが、将来的に中古でも入手が困難になると、最早それは成り立たないでしょう(超人気映画、超人気アニメであれば問題は無いのでしょうけど)。新たな情報源が見付かるまでの間、サブページやノートに退避するなり、コメントアウトしておくなりが考えつくところですが、何のかんのと言いながらウィキペディアもまだ、歴史が浅いものですから、この辺りの文書の整備はこれからなのかもしれません。何分私はメタを存じ上げませんので、あちらや英語版でどの様な構想が持たれているのかはよくわかりませんが。--Hman(会話) 2012年4月12日 (木) 16:19 (UTC)
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- NISYANさんや4行DAさんの発言と少し重複しますが、劇場公開作品を思い描くとイメージし易いと思います。劇場公開作品の記事の内容については、外部媒体に載せられている事柄を除けば、基本的には劇場に観客として足を運んだ執筆者が、自身の記憶を頼りに執筆している事になると思います。劇場公開中は、劇場に足を運びさえすれば、誰でも「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」を閲覧できますので、皆さんの言う所の出展としての問題は無いと考えます。ただし、TVと違い録画は存在しませんので、作品と記事とを突き合わせて確認する事はできませんので、厳密な検証は、映像ソフトのリリースを待つ事になるかもしれません。では、劇場公開が終わり、映像ソフトがリリースされるまでの期間は、一体どうなってしまうのでしょうか。特殊なセールスパターンを除けば、劇場公開後、映像ソフトは数ヶ月から1年程度遅れてリリースされるのが一般的だと思いますが、その間、当該の記事には出展が存在しない事になってしまいます。TVと違い、録画も一般には存在しないはずですので、真に検証材料が存在しなくなってしまいます。では、この期間に限り、記事から該当箇所を削除すべきなのでしょうか。少なくとも私の知る限り、そんな不自然な編集が行われた記事は見た事が有りません。TVでの放送作品も、これと全く同じ話で、放送期間中は「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」が存在するにも関わらず、出典足り得ないとの扱いは理不尽であると考えます。また、放送期間が終わったからと言って、手のひらを返した様に、「事実確認の機能を欠く情報源」として扱われる事も理解に苦しみます。--Dojiking(会話) 2012年4月12日 (木) 16:44 (UTC)
- (NISYANさんへ)難しい問題ですけど、はっきりいえるのは、検証可能性と文献の入手しやすさは別の概念ということですね。WP:SOURCEACCESSでも説明されていますが。誰かにとって入手が困難な資料だとしても、それを出典にして記述した編集者は少なくともその資料を参照できるわけで、その場合はその編集者にその資料になんと書いてあるか問い合わせることはできますし、場合によっては(著作権の問題がなければ)スキャンしたものを見せてもらえるかもしれないわけで(というようなことはen:Wikipedia:Offline sourcesで説明されています)。検証可能かどうかを、その資料が市場で流通しているかどうかに読み替えるのは間違っていると思いますけど。(WP:VやWP:RSはそういうふうには読めないです。)
- アニメのキャラクターに関する記述は検証可能性とも関わってますが、主に独自研究にあたるかどうか(執筆者の解釈が入ってるかどうか)の問題だと思います。一次資料をもとにあらすじや登場人物を記述する際に大事なのは解釈を交えずに見たとおりに書く、ということであって、あるキャラクターの性格はこうだ、というのはいくつかのエピソードの中のそのキャラクターの行動をまとめて編集者が総合的に勘案しているわけで、独自研究に当たると思います。この場合は、あるキャラクターの性格はこうだ、と直接的に書いてある資料が必要でしょう。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)
話をややこしくする意図はないのですが「定期的に再放送が行われているテレビ番組はどうなるのか」「地域によって放送日に差があるテレビ番組はどうなるのか」という疑問がわいてきました。これなら「えっ、本当かな?」と参照したいとき間違いなく確実に参照可能ですよね?(その日の予定がどうとかその地域までの交通費うんぬんは全部棚上げすれば)過去ログも見たのですがなぜか再放送あたりに話が及ぶと名言を避けるような傾向を感じました。ということを鑑みても「テレビ放送の出典は100%除外する」のは少々無理があるのではないかと考えるのですが……。これを「再放送時にさらに編集される可能性がある」と言い出したら出版物に関しても「初版にだけ書かれている」とか映画も「上映時とブルーレイで異なる」となっていよいよその先には混沌しかないのでは。ギュウギュウにしめるよりも、もう少し性善説よりでもいいのではないでしょうか?(過去のバージョンが公開されていないソフトウェアとかもありますよね)--にの(会話) 2012年4月12日 (木) 20:13 (UTC)
コメント 一般の書籍として流通した文献は、たとえ絶版になったとしても図書館で借りたり古本屋で入手したりできるので、絶版になっても検証可能です(何世紀も前に木版印刷で出版された古書、といったものとなればまた話は別でしょうが)。多くの書籍は通常、何年も経てば品切重版未定や絶版になってしまうので、これを「常に出版元から新品の状態で入手できなければ検証不可能である」と定義してしまうと、ウィキペディアの検証可能性は成立しません。同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態になったことがあるBD/DVD/ビデオテープなども、レンタルで借りたり中古で購入したりできるので、検証可能でしょう。またインターネットで公式配信されている番組も、Web上の文献と同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」ので、検証可能です。将来的にWeb上での配信が停止したとしても、その頃にはBDやDVDでの検証が可能になっていることでしょう。- さて、テレビで放送され、BD/DVDとしてリリースされる予定がある映像作品の検証可能性ですが、私は「ある」と考えます。まずBD/DVDとしてリリースされる予定があるということは、その映像は将来的には永続的な検証可能性が保証されるわけです。ではBD/DVDとして発売されるまではどうか。一般に、アニメやドラマなどは録画率が高いことが知られています。BD/DVDで発売される予定があるということは、その映像にはそれだけの商業的価値があると見做されているわけですから、当然、録画している視聴者も多いわけです。ここで「Wikipedia:検証可能性」で、ウィキペディアではなぜ検証可能性が重視されているのかを思い返してみて下さい。
- > なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。
- ウィキペディアのルール解釈で重要なのはルールの精神と常識を尊重することです。確かに、その番組を見ておらず録画していない者は、その記事の正確さを検証することができません。ですが、テレビドラマやテレビアニメといった放送番組は、放送開始前から雑誌などで宣伝が告知されます。また、どんなにローカルな番組でも都道府県レベルの広域にある人々が、一時的にせよ「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態に置かれます。たとえ東京都民の0.1パーセントの人しか録画しなかったとしても、一万人の視聴者がその番組を録画したことになる計算です。その番組に関心を寄せており執筆に関わろうとしている編集者や読者であれば、高い録画率が期待できるでしょう。つまり、たとえ自分は番組を見ていなかったとしても、番組を録画していた少なくない編集者や読者がその正しさを検証することができます。これが学校の部活やサークルで作られた個人作品で、執筆者全員がその関係者である、といった場合であれば「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」という批判は正当ですが、そういった作品との違いは「信頼できる出版元(一定の放送圏を持った放送局)によって、その情報が(自宅のテレビで)入手でき」たか否かにあると言えるでしょう。
- また、テレビドラマやテレビアニメが現実の出来事と異なり、娯楽作品としてデフォルメされたものであることも見逃せません。全ての視聴者には同じ内容の番組が届けられますので、これは個人的な体験談といった意味での一次情報とは事情が異なります。出来事には起承転結が設けられ、登場人物の性格や容姿には一貫した特徴が用意され、有限に区切られた時間の中で筋道立てて説明されます。義務教育を通して小説の読み方を習ったことがある大人であれば、わかりやすく整理された娯楽作品の内容を整理して説明することは容易でしょう。解釈や分析に踏み込まない限りは、一次資料に基づいて構わない範囲です。
- 一方、BD/DVDとしてリリースされる予定がない番組は、私も検証不可能であると考えます。例えばニュースなどは録画率を期待できませんし、内容を詳細に覚えていることも期待できないでしょう。また、BD/DVD化された際に、オンエア版と異なる内容でリリースされた映像作品は、BD/DVD版に合わせるべきであると考えます。もっとも「オンエア版とBD/DVD版で主題歌が差し替えられている」といった大きな違いは、たいてい公式ファンブックなどに記載されますし、取るに足りない作画修正などの違いは、そもそも百科事典的な記述ではないので不要と考えます。--Kanohara(会話) 2012年4月12日 (木) 21:20 (UTC)
コメント「映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください」との話がありましたが、国立国会図書館#資料の収集・整理には、「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象となっています。実際国立国会図書館 蔵書検索・申込システム NDL-OPACで検索すると、最近のDVDやゲームソフトなども収納されています。念のため。--アルビレオ(会話) 2012年4月12日 (木) 21:45 (UTC)
- Kanoharaさんの説明はわかりやすくてすごく頷けました。あとからDVDが出ることが分かりきっているにも関わらず、TV番組や劇場公開の終わった映画を出典とすることを排除する必要はないと思います。あと、もうひとつ英語版の文書を見つけたのですが、そこには書籍に関しては世界中でたった一つの古本屋にしかないとしてもアクセス可能である、テレビ・ラジオ番組に関しては放送局にあるアーカイブが(お金を払えば)誰でも視聴することができるのであればアクセス可能、番組アーカイブが大衆に解放されていないのであればアクセス不可能、今この時点で誰でも利用することのできるコピーがただの一つもなければ、たとえ過去の時点では利用可能であったとしても、アクセス不能、などとなっていて理にかなっていると思いました。
- (にのさんへ)「ギュウギュウにしめる(参照した資料を特定する)」のと「性善説」は別なのでは。DVDは発売されたバージョンで内容が大きく違うというのは普通にありますし、書籍でも初版とそれ以降の版で内容が大きく異なるというのも普通にあります。そのため、{{cite book}}や{{cite video}}では発売日や版・エディションなど、どのバージョンを参照したのか事細かに指定できるようになっていて、編集者も当然どのバージョンを参照したのか明記する必要があるでしょう。「性善説」というのは、たとえば、誰かが「○○という資料には××と書いてあった」と主張したときに、たとえそれが自分にとって入手が困難で内容が確認できないとしてもその内容は正確であると仮定することだと思います。テレビ番組を出典とできるのかどうかは、その公式なコピーがあるのかどうか、という問題であって、「性善説」とはちょっと違うと思います。たとえば、誰かがYouTubeやニコニコ動画にテレビ番組をアップすれば(普通は違法ですが)、誰でも内容を検証することができるコピーができたことになりますし、性善説にたてばその内容の正確さも保証されていると仮定してもいいかもしれませんが、このような出所が放送局や製作会社ではないコピーは、信頼できる第三者が公表した公式なコピー(発売されたDVDなど)と同列に扱えないかなと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月12日 (木) 22:45 (UTC)
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- はい、まさにおっしゃるとおりでYouTubeに違法uploadされたものは出典とはいえないと私も思います。あと、「どこかの古本屋にあるかもしれないはOK」であるというのは理解しました。残りました「再放送が確定している」・「地域によって放送日時がずれている」のは如何でしょうか。さらに「どこかの古本屋で入手できるかもしれない」なら「再放送されるかもしれない」というopinionが考えられそうですがこれはどういう扱いになるのでしょうか。もちろん
逮捕歴のある芸能界を追放された芸能人が出ていた番組の再放送はまず無理でしょうから可能性ゼロ=出典無効といえるかと思いますが……。「性善説」「劇場版」については一旦おいて、まずは現行の「テレビ放送」について一定の方向を見いだせればと思います。--にの(会話) 2012年4月13日 (金) 01:51 (UTC)- 書籍やDVDであれば、国会図書館にも、各自治体の図書館にも、国立大学の図書館にも、最悪民間資本の図書館にも無い。資料館・博物館等での参照も困難。とどめにamazonでも流通しておらず、根気強いヤフオク巡回か古書店巡りくらいしか参照または入手の可能性が無い。・・・レベルの資料は、媒体を問わず、ウィキペディアでは満足に検証可能と見なすべきではないでしょう。古文書レベルになると引き写しが各所にあり、情報自体は参照可能なんですけどね。まあ、この辺りが「常識の範囲で一般人に検証可能」じゃないんですか。で、再放送の可能性ですが、これまでVTR化もDVD化もなされていないテレビ番組おおよそ全てについて(にのさんはバラエティ番組を想定していらっしゃる様ですが)、「放送局のVTRが上書きまたは破棄されたとの明確な情報がもたらされるまでは放送局がそれを持っている可能性もあり、人気番組であったはずだから今後再放送される可能性も0%とは言い切れないので一般編集者や閲覧者による満足な検証が十分に可能である。最悪の場合、個人宅にお邪魔して録画したテープを見せて貰える可能性やダビング(違法ですけど)できる可能性も無いとも言えないので、一般の編集者にも検証可能である」って、無理が過ぎませんか?この理論が通用するのであれば、かつてテレビで見た記憶や印象だけで何でも書けてしまえますけど。--Hman(会話) 2012年4月13日 (金) 04:06 (UTC)
- うーん、古書についての見解はバラけているところでしょうか。これは一旦おいてまず「再放送するかもしれない・しないかもしれない」というのは「想定される意見」で私自身が主張・推す意図はありません。これは「無理がある」ということは理解しました。引き続き「予定が確定している再放送」「地域で異なる放送日時」はいかがでしょうか。話がとっちらかるとぼやけてしまうのでここに絞っていきたいと思います。なお、私は「だから認めてほしい/認めるべきだ」というつもりはありません。(私はレコーダーすら持ってませんので……)「考えられうること」としてクリアーにしたいと思っています。--にの(会話) 2012年4月13日 (金) 04:23 (UTC)
- まあ実績から再放送の可能性が通常より高い番組ももちろん無いでもないのでしょうが、掲載を望む側がある程度それを担保できないと駄目でしょうね。さて、地方での時間差放送が4月20日としましょう。現在現役でウィキペディアに参加している編集者でありその記事に興味を示している方の一部は、その気になれば参照が可能です。結構一部な気がしますが、結構。では、4月21日以降に参加または興味を示された方は?・・・参照できません。つまり、本日4月13日から4月20日までの1週間の間のみ瞬間的に参照可能な資料を広く検証可能と見なすのも、やはり無理です。それを一日でも過ぎれば「過去に参照できたと言われている資料」に過ぎません。ただし長期間継続的に同じ内容のものの再放送が行われた実績があり今後もそうであることを掲載を望む側がかなりの確度で示せるものについては、例外かもしれません。「ドリフの大爆笑OP」レベルであったら、もしDVD化もVTR化もされていなくとも、認めると仰るかたもいらっしゃる可能性も・・・?--Hman(会話) 2012年4月13日 (金) 04:45 (UTC)
- うーん、古書についての見解はバラけているところでしょうか。これは一旦おいてまず「再放送するかもしれない・しないかもしれない」というのは「想定される意見」で私自身が主張・推す意図はありません。これは「無理がある」ということは理解しました。引き続き「予定が確定している再放送」「地域で異なる放送日時」はいかがでしょうか。話がとっちらかるとぼやけてしまうのでここに絞っていきたいと思います。なお、私は「だから認めてほしい/認めるべきだ」というつもりはありません。(私はレコーダーすら持ってませんので……)「考えられうること」としてクリアーにしたいと思っています。--にの(会話) 2012年4月13日 (金) 04:23 (UTC)
- 書籍やDVDであれば、国会図書館にも、各自治体の図書館にも、国立大学の図書館にも、最悪民間資本の図書館にも無い。資料館・博物館等での参照も困難。とどめにamazonでも流通しておらず、根気強いヤフオク巡回か古書店巡りくらいしか参照または入手の可能性が無い。・・・レベルの資料は、媒体を問わず、ウィキペディアでは満足に検証可能と見なすべきではないでしょう。古文書レベルになると引き写しが各所にあり、情報自体は参照可能なんですけどね。まあ、この辺りが「常識の範囲で一般人に検証可能」じゃないんですか。で、再放送の可能性ですが、これまでVTR化もDVD化もなされていないテレビ番組おおよそ全てについて(にのさんはバラエティ番組を想定していらっしゃる様ですが)、「放送局のVTRが上書きまたは破棄されたとの明確な情報がもたらされるまでは放送局がそれを持っている可能性もあり、人気番組であったはずだから今後再放送される可能性も0%とは言い切れないので一般編集者や閲覧者による満足な検証が十分に可能である。最悪の場合、個人宅にお邪魔して録画したテープを見せて貰える可能性やダビング(違法ですけど)できる可能性も無いとも言えないので、一般の編集者にも検証可能である」って、無理が過ぎませんか?この理論が通用するのであれば、かつてテレビで見た記憶や印象だけで何でも書けてしまえますけど。--Hman(会話) 2012年4月13日 (金) 04:06 (UTC)
- はい、まさにおっしゃるとおりでYouTubeに違法uploadされたものは出典とはいえないと私も思います。あと、「どこかの古本屋にあるかもしれないはOK」であるというのは理解しました。残りました「再放送が確定している」・「地域によって放送日時がずれている」のは如何でしょうか。さらに「どこかの古本屋で入手できるかもしれない」なら「再放送されるかもしれない」というopinionが考えられそうですがこれはどういう扱いになるのでしょうか。もちろん
- 本議論提起者です。製品DVD等の検証可能性についてや、Hmanさんとにのさんによる再放送の議論(正確にはその結論)は前議論で既に意見を述べている(この辺とか)んですよね。ですので特定の案件についてではなく、広く放送番組の検証可能性について伺いたかったのですが、書き方が下手ですみません。
- NISYANさんのおっしゃるような映像メディアが規制によって入手不可能となったとしたとしても、そのメディアが発売されたという事実及び規制された事実は他の検証可能な資料を元に記載可能でしょう。場合によっては規制理由について書かれた資料もあるかもしれません。さすがに元メディアの中身についての記述は無理になるでしょうが、発売及び規制の事実は特筆性が低くないと個人的に思いますので、その記載に代えるというのでは駄目でしょうか。製品DVD等については網羅とはいかないまでもアルビレオさんのおっしゃるとおり国会図書館にも所蔵が増えているようです(私的所有物タイトルで検索にかからなかったものも結構ありましたが)。
- 最初の提起に書きました「検証する手段を保有している人が検証する」については、製品DVD等の発売が見込めない番組を私的DVDに録画したものや放送局が非公開アーカイヴしているもので確認しても検証可能とは言わないということで宜しいでしょうか? --Ritis(会話) 2012年4月13日 (金) 11:30 (UTC)
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- Ritisさんの理解でよいと思います。書籍に関していうと、ある書物が発刊されたことがありどこかにコピーが存在している、というだけでは不十分で、検証可能性を満たすためには少なくとも一部が世界中のどこかの図書館か古本屋で利用可能であることが条件になります。その気になれば(お金と時間さえかければ)誰でも(関係者などでなくとも)アクセスできる、公に利用可能なコピー少なくとも一部が今この時点で存在していなければならない、ということです。世界中のどの図書館にも収蔵されてなく、法的な理由で売買が禁止されており、すべてのコピーが私的な蔵書としてしか存在していない書物は検証可能性を満たさない、ということです。これをテレビ番組に当てはめると、私的な録画は公に公開されているとはいえず、それ以外に今この時点で誰でもその気になればアクセス可能なコピーが存在していないのであれば、検証可能性を満たさない、ということになると思います。たとえば、NHKは各地のアーカイブで過去の番組を一般公開しています[2]。これは、その気になれば誰でも視聴することができるコピーが存在しているということであって、検証可能性を満たしている、ということになると思います。アーカイブの公開が放送関係者などに限定されている場合は、検証可能性を満たさない、ということになると思います。例外はKanoharaさんが指摘したDVD発売待ちの動画だと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月13日 (金) 13:12 (UTC)
- (少し脱線してる気もしますが)DVD発売待ちの動画についてはWikipedia:性急な編集をしないにも注意が必要な気がします。マンガなどの分野ではコミックス発売まで加筆しないと言うローカルルールも良く見かけますし。--219.105.90.213 2012年4月13日 (金) 23:53 (UTC)
- うーん、その二つの扱いは基本的に、違うと思います。マンガなどについて単行本発売まで反映を控えるのは、逐一だらだら書いていてはぐだぐだ或いは支離滅裂になり読めた記事にならないと言う意味が大きいんじゃないですか。そしてマンガ雑誌は通常の物であれば、単行本発売まので間も、それなりに参照と検証が可能です(外国の方などが日本の雑誌を相手にする時は単行本より入手何度が2つ3つ桁違いに高いかもしれませんが、一般的に見て十分に可能でしょう)。よって「性急な編集はしない」となります。DVD発売待ちの等、その時点ではまだ電波が発されただけに過ぎないテレビ番組については、その実執筆時には検証不可能であるのに将来的に検証可能になるからという理論で前倒ししているお話なので。こちらは仮に、善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、「当面無理です」とお答えせねばなりません。こちらは「検証不可能なことを書かない」となります。いずれにしても「基本的には二次資料を使う」というウィキペディアの原則をできるだけ尊重することで、記事の品質は向上するはずです。--Hman(会話) 2012年4月14日 (土) 01:33 (UTC)
コメント 漫画がコミックス単位で加筆されるのは、ストーリーがある程度まとまってから加筆すべきという理由によるものですが、テレビアニメのDVDはたいてい2話単位で収録されるので、ストーリーのまとまりという点ではオンエアを元に加筆するのと大差ないでしょう。- それと、漫画は作者の個人作品という性格が強く、雑誌などに事前情報が掲載されるのは稀ですが、マニアックな客層がつく深夜アニメなどは、アニメ雑誌などに特集記事やスタッフインタビューが掲載されることも多く、ある程度先の展開への展望や、解釈が分かれる場面の解説などに触れられることもあります。現在の「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」では、出典により裏付けのある情報は加筆して良いことになっています。
- > 善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、
- それは、録画を手元に残している人が検証・確認すれば宜しいかと。仮に虚偽の内容をでっち上げたい人がいて、ソックパペット、ミートパペットを大量動員して「検証した」と言い張っても、その番組がオンエアされたものである以上は別の誰かにも検証できるので、虚偽は相互監視によって見抜かれることでしょう。騙し通せるはずがありません。そもそもウィキペディアには締め切りなんてないので、記事の内容が疑わしく思え、ノートで質問しても納得がいく答えが得られなかったのなら、BD/DVDの発売を待って自分でじっくり検証すればよいのです。虚偽の記述が書き込まれる可能性がないのなら、BD/DVDが発売されるまで記述の内容を検証できないのも、BD/DVDが発売されるまで記述自体が存在しないために疑問を抱くこと自体が不可能であるのも、結局は同じことでしょう。--Kanohara(会話) 2012年4月14日 (土) 02:05 (UTC)
- 一部の方には私が感じていたものが理解いただけたかなと。
- 私はKanoharaさんの言う製品DVD等の担保による録画された番組の検証可能性も、Ohgiさんの言う永続的な検証可能性を追求するという言葉も、いずれかに結論付ける必要はないと考えております。いずれの考えも方針の精神を十分に理解した上での解釈の差異であり、いずれかに決める必然性が無いからです。好みだけを語るなら製品DVD等の担保によって書いても良いのではとは思っていますが、急いで書き上げる必要性もないですからね。
- だからこそ結論は前の発言で述べたとおり「製品DVD等の発売が見込めない番組を(中略)確認しても検証可能とは言わない」しかコミュニティでの同意を得られないと思うわけですが。--Ritis(会話) 2012年4月16日 (月) 12:50 (UTC)
- 少し空いてしまってコメント付けづらいインデント状況になっているので、下に書きます。
Vigorous actionさんの≪NDLでは閲覧どころか複写も可能≫について。コメントありがとうございます。そうでしたか。確認に行くつもりもありませんが、2005年7月16日の朝日新聞に載った記事(法務省に「摘発対象になりうる」と指摘されて調査に乗り出した云々)で、その後てっきり閲覧不可になっていたものと思っていました。
アルビレオさんの≪「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象≫について。ありがとうございます。そうすると、その方向で問題がありそうなものは、納品がほとんど行われていないとされている、アダルト作品類(参考:『図書館界』61巻4号、国立国会図書館における成人向け出版物の納本状況)くらいかもしれません。そうすると、ここでの主題(放送番組の検証可能性の話)からは大きく外れそうですね。--NISYAN(会話) 2012年4月16日 (月) 13:45 (UTC)
すいません、少しまぜっかえすようですが、テレビ本放送と製品BD/DVDがまったく同じだとは限りません。細かい所だとグッズのレーベルがかえられたり、ひどいときは話の内容までかえられているものもあります。また最近(でもないか)映画と製品BD/DVDの色が違うと話題になったこともあります。漫画の場合は雑誌と単行本(文庫本)を並べてみれば一目瞭然ですけど・・・--219.40.151.3 2012年4月18日 (水) 15:37 (UTC)
- はい、その通りです。アニメを前提とされているのかもしれませんが、あらゆるテレビラジオ記事に言えることでしょうね。よってどうしても一次資料で書く時は、DVDに準拠して、DVDの内容を解説することになります。・・・というのもおかしな話ですが、とにかく過去発せられた電波がどの様なものであったのか、直接確認することは物理的に不可能ですのでどうしてもウィキペディアで書く以上こうするよりありません。しかし手立てはあります、と申しますかウィキペディアでは基本的に二次資料を使って執筆することになっていますので、有力な文献が出てくれば「○○著『××』(2010)は、DVDでは△であるが、本放送では□であったとする」と書く事ができます。「ウィキペディアには締め切りなんてありません」ので、検証不可能な事は書かず、ちゃんと検証可能な資料が出て信頼性を確認できるまで待ってから、が大原則です。もっとも、<ref>DVDによる。</ref>と、本放送とは違うんだぞ、と臭わすささやかな抵抗を行なうくらいは構わないんじゃないかな、と個人的には考えています(個人の考えです)。なお、間違い探しレベルの些末な違いは恐らく、ウィキペディアには列記する必要がありません。特記性・特筆性のあることだけで良いと思います。抗議が来て話を差し替えたとか、犯罪を起こした芸能人が編集カットされたとか、そういった重大な変更は二次資料で触れられているはずですので、それが一つの閾となるでしょう。コンピュータゲームの機種ごとの違いなどもそうですね。これも個人的には「多少筆が走るのがウィキペディア」と思い、おおらかにはやっておりますが。--Hman(会話) 2012年4月18日 (水) 16:19 (UTC)
コメント(冒頭の問題提起に対して)基本的にKanoharaさんと同意見になりますが、本放送以外のメディアでリリースされているものについては検証可能性の面で問題はないと思います。たとえばこの議論の端緒として提示されている『あの夏で待ってる』であれば、テレビ録画をしていない人でも内容を検証したければバンダイチャンネルなどで閲覧可能ですから、もしも最初の投稿者がそれを知らずに本放送の放送情報を出典に提示して記事を書いていたとしても、他の編集者がより適切なアクセス性の高い出典に差しかえてくれることが望めますし、逆にその内容が正確でない場合にも(放送日時・放送回さえ分かれば確認の対象が絞れるので)記述除去の判断がかなりやりやすくなると思います。そもそも前述の作品の当該議論に参加されている編集者の方々はおそらく全員がその作品内容を確認する手段はお持ちでしょうから、そういったある程度メジャーな放送情報に対して「検証可能性」という側面をことさらに問題視する意味は(少なくとも編集の実務上は)あまり無いと思います。- それよりも、放送番組の録画でも何でも良いのでとにかく出典を提示する、ということのほうが格段に重要かもしれないと思う今日この頃です。たとえば、先日もののついででうる星やつらの登場人物の一部記述に{{要検証}}テンプレートを貼ったのですが([3])、「この情報は99%間違いだろう」と思う記述を目にしても、原作の漫画が全34巻、TVアニメは5年間で200回近い放送回数なので、それがどのメディアのどの箇所のことを述べているのかが分からないと容易にチェックすることができないということを経験しました。私個人はその作品のテレビアニメ版(テレビ録画もDVDも)は所有していませんが、それでももし番組放送日か話数だけでも記事の出典(実際に利用された情報源)として記載されていれば、その話数に対応する原作の内容を確認して「少なくとも原作にはそのような描写はないですよ」と指摘することは短時間でできますし、他の編集者の方に放送版の内容を確認頂くことも容易になったと思います。そういう放送情報源の有用性を全否定されてしまうと現実の運用面で逆に辛いものがあるようにも思います。--ディー・エム(会話) 2012年4月21日 (土) 06:16 (UTC)
-
- 情報提供ありがとうございます。今どきのテレビドラマはおそらくそんな事情になっているのではないかなとは思ってましたが。この場合は、当然検証可能性を満たしているということになると思います。
- 「うる星やつらの登場人物」は(確かに焼け石に水という感じですが)、出典に関する情報をできる限り細かに提示するということであって、テレビ番組やフィクションに関する記事に限ったことではないと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)
最近の新しい試みとしてオンデマンドなんて物が出てきましたが、これはどういう扱いになるのでしょうか?--219.40.151.3 2012年4月28日 (土) 16:26 (UTC)
コメントもともとインターネットなどでは文字・音声・映像の区別にかかわらず、ストリーミング放送(著作権法でいう「放送」または「有線放送」)よりもオンデマンド配信(著作権法でいう「自動公衆送信」・放送法ではおそらくこれも「放送」の一種)が主流だと思いますので、後者のコンテンツに関しては基本的に通例的なウェブサイト情報源の出典の示し方に準じれば良いのではないかと。--ディー・エム(会話) 2012年4月29日 (日) 05:03 (UTC)
報告 Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#動画などのマルチメディアの扱いでWP:RSに動画などの取り扱いに関する但し書きを加えることを提案しました。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 22:55 (UTC)
コメントWikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?,Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源なのか,Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組Category:井戸端の話題/テレビ番組に関連議論があるようです。--fromm(会話) 2012年5月1日 (火) 08:41 (UTC)
可変Ipからの書き込み失礼します。 私としては中立の立場なのですが、ガイドラインの解釈について、明らかに間違っている箇所が有りますので発言させて下さい。 何度となく『誰でも検証可能』との表現が使用されていますが、Wikipedia:検証可能性には、どこにも『誰でも検証可能』とは書いてありません。 これは私の勝手な想像ですが、『広く信頼されている発行元からすでに公開されている』の表記から、『公開されている資料なら誰でも入手できる』との発想が生まれたのではと思います。 しかしながら、この考え方は間違いで、公開されている資料を入手できない立場の人も大勢います。 最も分かりやすい例としては、レイティング指定の資料が出典となっている場合で、俗に言う『18禁』の書籍が出典であれば、未成年は入手も閲覧もできませんので、検証資料にできません。 この事と、放送を見ていない人とを同じに扱えるかどうかは意見が分かれると思いますが、参考になれば幸いです。--58.138.13.52 2012年5月2日 (水) 17:22 (UTC)
- それは極論だと思いますけど、ウィキペディアの記事に出典として用いられている資料には当然時間とお金という制約があります。ワンクリックで閲覧することのできるものもあれば、相当のお金と時間をかけないと手に入らないものもあります。18禁の書籍以外にも、子供にとって事実上入手不可能な資料はいくらでもあるでしょう。こういうことは時間が解決してくれる制約だと思います。あとまあ、「誰でも」というのは「記事を読んだ誰でも」ということであって、そもそも、よい子は18禁の書籍を出典にしているような記事を読んだり内容を検証しようとしたりはしないと思いますけど。--Bugandhoney(会話) 2012年5月2日 (水) 20:59 (UTC)
コメント全ての読者・全てのユーザーとはいかないまでも、特定の地位や職権などに依存しない不特定多数による検証手段の存在が求められているのは間違いありません。- Wikipedia:検証可能性(現在の最新版)には、次のような言及があります。
- Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
- 検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。
- Wikipedia:検証可能性#アクセシビリティ
- この文章での検証可能性とは、ウィキペディア内の記述について他ユーザーが、信頼できる情報源によって公表されていることを検証可能でなければならない、ということです。
- 他方、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源では次のようにも述べられています。
そして、そのような信頼性に乏しい情報源にしか見つけられない情報の扱い方について次のように指示されています。一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。
その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。
- 過去の議論の中でいえばKs aka 98さんのご意見(Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組など)を私は支持しますが、必ずしも多数派ではないかもしれません。いずれにせよ、放送メディアの検証性に否定的な立場の方々に対して「横暴だ、やめてくれ」と不毛な抗弁に終始することよりも、なぜそのような厳しい声が多数沸き上がるのか、その理由に思慮を巡らせることのほうがより重要であり、建設的であると思います。少なくとも、
- 重要でない情報は検証可能性を検討するまでもなく記述不要。
- 情報源が何であろうと出典を記載しなくて良いということはない。
- という点については方針に明記されていますから異論の余地は無いはずです。翻って、放送分野の記事の現状に照らし合わせて省みた時、認識を改めるべき部分も多いのではないかと思います。--ディー・エム(会話) 2012年5月3日 (木) 07:09 (UTC)
Ip変わっています。 ウィキペディアには『よい子は18禁の資料を出典とする記事を読んではいけません』というルールはありませんが、世の中には『よい子は18禁の資料を読んではいけません』というルールがある以上、『記事を読んだ誰でも検証可能』という解釈は成立しません。 レイティングについては、分かりやすい例として書いたまでのことで、それについて議論しようと思っていませんし、他にも同じような事例は有ると思います。 また、著しく入手が困難なことと、立場上入手不可能なこととは、全く意味が違いますので、対比することに意味はないでしょう。 最後に、議論の内容へは深入りしたくないのですが、『時間が解決してくれる制約』を許すのなら、放送番組のDVDが発売されるのも、『時間が解決してくれる制約』ですよね。--101.128.163.43 2012年5月3日 (木) 09:06 (UTC)
- DVDの発売が見込める場合については、私が見た限りでは統一した見解には至ってないですが、柔軟に対応すればよい(検証可能性を満たしている)という意見を私を含めて複数の編集者が表明しています。あと、一般論で言えば今どきのテレビ・シリーズはどこかにデジタル・アーカイブがあると考えてよいと思います(それをちゃんと探してという意味です)。--Bugandhoney(会話) 2012年5月3日 (木) 12:41 (UTC)
[編集] 「Wikipedia:出典を明記する」の新規方針(リンク切れの回避と修復)との整合性について
放送番組が直接対象となるものではありませんが、5月1日 (UTC, JST)以降、ウェブサイト情報源のリンク切れに関する扱いの方針がWikipedia:出典を明記するに加わりました(→Wikipedia:出典を明記する#リンク切れの回避と修復)。この新規方針の対象であるリンク切れウェブサイトと、当議論の対象である放送番組情報源とを比較した場合、
- 各個人レベルでの複製保存以外、情報源に対する検証性(アクセス性)が担保されていない。
- 情報源へのアクセス遮断からアーカイブメディアのリリースまでにタイムラグがある。
- 当該アーカイブのリリースが見込めない情報源も存在する。
といった点で共通しており、今後それらの整合性を加味した明瞭な新規ルールを検討する価値はあるかもしれません。--ディー・エム(会話) 2012年5月3日 (木) 13:29 (UTC)
[編集] 重複記事であるのか?違うのか?
こんにちは。ノート:九州の役で、「九州征伐」や「九州攻め」の候補への改名について議論中でしたが、先日改名でなく記事の独立という形で元記事の九州の役から履歴継承と加筆による九州攻めが立てられました。Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#重複した記事をつくることという決まりがあり、元記事から引き写された履歴、定義や内容を見たところ重複記事であるように思いました。コメント依頼も考えましたが、まずはルール運用として重複記事なのか否かについて皆様に判定をいただきたいと思います。また、このルールの解釈によって記事が両立可能(あるいは可能性として九州の役、九州攻め、九州平定、九州征伐が並立可能なのか?)な状態であるのか意見をください。(どちらが正しいといった、意見や議論についてはこの項目では扱わないこととしてください)--Jaszmars(会話) 2012年4月25日 (水) 07:34 (UTC)
- (序文・定義)九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である[注釈 1]。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州平定(戦)」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることも多い(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
- (序文・定義)九州攻め(きゅうしゅうぜめ)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)による九州地方への進攻戦、秀吉が全国統一の一環としておこなった島津氏をはじめとする反豊臣勢力に対する平定戦である。
- (履歴継承)2012年4月22日 (日) 04:51 Chokorin (会話 | 投稿記録) . . (67,989バイト) (+67,963) . . (「九州の役」Chokorin(会話 | 投稿記録) による 2011年10月16日 (日) 08:13 を修正、加筆して立項)
- (項目の序文)豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。
- (序文・定義)豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。九州平定(きゅうしゅうへいてい)とは、九州地方における敵対勢力を討って服属させること、あるいは、それにより平和な状態をつくりだすこと。九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)とも称する。日本の歴史においては、九州停戦命令(惣無事令)にもとづいた豊臣秀吉による九州平定戦(九州の役)が特に有名である。
- (履歴継承)2010年7月25日 (日) 17:57 Chokorin (会話 | 投稿記録) . . (22,909バイト) (+12,051) . . (源為朝、耳川の戦い、今山の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦い、九州国分、九州の役、惣無事令各一部を改変転記して加筆) (取り消し)
- (履歴継承)2010年7月25日 (日) 17:55 Chokorin (会話 | 投稿記録) . . (10,858バイト) (+10,834) . . (ノート:九州の役合意により立項。 源範頼、治承・寿永の乱、足利尊氏、多々良浜の戦い、懐良親王、筑後川の戦い、今川貞世#九州平定、水島の変 改変転記。) (取り消し)
- (参考記事:九州国分)
- (問い合わせ点)重複記事であるのか?違うのか?
コメント 個人的にはどっちでもよいと考えていたので上記議論には入りませんでしたが、今回のChokorinさんのリダイレクト解消加筆は、二者択一で応えるなら重複記事であると思います。ただ、これには続きがあって、Chokorinさんの思惑では、履歴継承元記事から重複部分を除去する予定らしいですよね。ほぼ同一の主題について、視点の違いから別記事を作成することは、全く出来ない訳ではないと思います(例:大東亜戦争と太平洋戦争等)。また、Jaszmarsさんの案も記事の分割のようなものであったと記憶しています。であれば、前向きに今後の方針を話し合う方が建設的かと思います。まあ、重複記事を理由に一旦リダイレクトに戻すというのも理屈としてはありだとは思いますが、腕ずくで解決しようとしない方がよいと思います(もう無理かもしれないくらい拗れているようにも思えますが)。--ろう(Law soma) D C 2012年4月25日 (水) 10:19 (UTC)
コメント 記事「九州の役」については、今もって改名提案が出されたままの状態であり、また、投票に先立つコミュニティの合意事項と2月に行われた「改名投票」の結果を踏まえれば、前回の改名直前の版(「九州征伐」2009年3月8日 (日) 07:51(UTC)(6.915バイト))に巻き戻したうえ「九州征伐」に改名するのが最も妥当な処置であり、早くその作業に移るべきだと思います。その場合、「九州征伐」への改名根拠としては「九州征伐」 (神田伯竜)や 「豊臣島津九州征伐」 (松林伯知)など娯楽作品が掲げられており、改名支持者の支持理由にも「サブカル分野への配慮」があったので、そのような方向性への加筆が見込まれます。したがって、重複記事にはならないものと考えます。しかし、あってはならないことですが、もし「九州の役」がこのままの状態で放置されるとか、現状のまま改名議論が凍結されるという可能性がもし存在しうるならば、もしかしたら重複記事となる事態も生じるかもしれません。「九州の役」の主筆者という立場で申し上げるならば、もし重複記事ということになるのであれば、削除すべきなのは「九州攻め」ではなくて「九州の役」だと考えます。というのは、「ノート:九州の役」によれば、「九州の役」の用語を用いている書籍として『日本戦史 九州役』(参謀本部編)、『日本の戦史4 小牧・九州・小田原の役』(現代語訳)(旧参謀本部編)、『日本戦史13 九州役』(復刻)(参謀本部編)の3点(実質は1点)があげられているものの、記事本文の「九州の役#参照」を御覧いただければわかるように、この記事の執筆は何ら参謀本部の「九州役」にもとづいていません。端的に言えば「Wikipedia:出典を明記する」の方針に違背しており、「九州の役」はそこからスッポリ抜け落ちているのです。したがって、「九州の役」を削除するか、そうでなければ「九州攻め」へのリダイレクトとすべきです。たしかに「九州の役#参照」には<毛利亮太郎「九州役の陣立書」(1997)>という文献が掲げられていますが、「九州役の陣立書」の掲載された新人物往来社『歴史研究434号』は、アマチュアの歴史愛好家が参加する「歴史研究会」の同人誌であり、したがって「九州役の陣立書」も日本史を専門とする学者・研究者の執筆したものではなく、歴史ファンの投稿文にすぎません。残念ながら「信頼できる情報源」とはいえません。記事「九州の役」の冒頭「九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である」でさえ、実のところ典拠が全く付されておらず、どの書籍のどのページにそんな定義があるのかさえ検証できない状態なのです。こういう状態の記事は、基本的には不要ではないかと思います。さらに、「九州の役」の主筆者としてもう1点指摘するならば、「九州の役」を記事名とする限りは記事の発展は絶対に見込めないと判断されますし、読者の立場からすれば、見つけにくく、わかりにくく、検索しにくいという難点があると考えます。なお、「九州平定」と「九州攻め」は併存可能だと思いますし、記事のボリュームからしても分けるべきと考えますので、現状で何の問題もないと思います。--Chokorin(会話) 2012年4月25日 (水) 10:47 (UTC)
コメント一連の騒動に直接は関わらなかったけど、ここまでゴタゴタした経緯を思うに「九州~」と「小田原~」は特例として並立立項を認めていい思います。特例として「九州征伐」記事と「九州の役」「九州征伐」「九州平定」の4記事並立。他の記事における内部リンクは基本的にはその記事・当該記述の出典にあわせる。4記事の内容は定義文以外は基本的にはあわせる(4記事で違うことが書いてあったらwikipedia的にまずい)、関わっている方々が改名論議に費やしている労力・時間をほかの事に向ければどれほど有効なことだか・・・(私個人は九州平定だろうと前から思っていました。が、あの論議に突撃する勇気はありませんでした)--ぱたごん(会話) 2012年4月25日 (水) 12:57 (UTC)
コメントぱたごんさんは「小田原~」も含めて論じられておられますが、もともと「小田原」の方には新項別立項の提案で合意状況になったことは一度でもありませんし、意見募集依頼者も含めておりません。「小田原」は「九州」とは歴史的事象としての背景も、出典や用語使用や執筆の状況も違っています。「小田原攻め」と「小田原征伐」は山川出版の日本史用語集でも併記されていますし、「役」と「攻め」の場合の相違や差異も別です。さらに言うなら「小田原」の場合は、勃発地元自治体のHPも含め、主題に関する歴史観や博物館の展示会や分野専門家の使用状況や文献として優勢なのは「小田原合戦」です。議論の経過も背景も違うのですから、特例を「認めていただく」ような状況にはありません。記事改名は期限付きではありますが、投票も含め終了しているので、問題を絡めて複雑化させるようなことはないと思います。「平定」「国分」に関して言えば小田原合戦戦後処理を解説する記事として「宇都宮仕置」が既にあります。--ジャムリン(会話) 2012年4月25日 (水) 13:58 (UTC)
とりあえず、ここでは当事者の方はいちいちコメントしないでもらえないだろうか。ノート:九州の役#第三者の意見募集でも、結局当事者が議論するだけで終わったように、単に議論の場を拡散させるだけなんで。それが嫌なら、こんなところで意見を聞かないで、元の場所でいつまでも議論していればいいでしょうに。--106.170.41.95 2012年4月25日 (水) 14:19 (UTC)
コメント この改名議論は延々と年単位で続いてきて、これからも続くかもしれません。その中で、本来執筆に向けられるはずの各位のエネルギー・モチベーションはどうしてもそちらに振り向けざるを得ない状況が続いてきました。たしかに、WP:NOTに重複記事は作らないと示されています。しかし、これまで改名で延々ともめ続けて、これからも改名でもめ続けるぐらいなら内容が重複しても各記事名称を押される各位が各記事を執筆される方がよほどWikipediaのためになるはずです。各記事で重複になる部分はありますが、WP:IARの精神に則り、例外的に重複(に近い)記事を認めた方が手っ取り早いと思います(ある程度の長期間時期を置き、それから統合なりを考えていけばいいでしょう)。Jaszmarsさん、WP:NOTを厳守するがために、延々とこれからも記事内容の充実そっちのけで改名議論を続けた方がいいとお考えですか? その結果、本来必要がないはずの不毛なコメント依頼やブロック依頼が出たとしてもかまわないのでしょうか。最後に、「ウィキペディア本来の目的は何なのか」という点を思惟すれば、自ずと答えは見えてくるのではないでしょうか。--かげろん(会話) 2012年4月25日 (水) 14:46 (UTC)
コメントわたしは、本項目の改名議論の激しさと重要度については疎いのですが、天井桟敷からのコメントとして受け止めて頂ければ幸いです。まず、九州平定という羽柴秀吉の諸国統一の九州における一連の諸事象を扱った記事があります。その一部に焦点を当てた記事について、九州の役、九州攻め又は九州征伐といった呼称をめぐり、統一した正式名称がなく、「Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには」の各基準などに照らし合わせても執筆者同士で見解が異なり、互いに譲らないまま九州の役から九州攻めの記事が作成されるに至った、ということと認識します。その上で、現状の記事は重複記事であるのは明白であるが、履歴継承で新規作成してから間もない故にこれは当然の事であると考えます。今後定義及び記事内容に大きな相違がみられない場合は統合または削除すべきと考えます。また、歴史観に違いによる相違であれば、Wikipedia:中立的な観点の趣旨から判断するに、同一記事内において両論併記がなされるべきです。併存していく道としては、互いの記事の定義及び内容が峻別でき、「曖昧さ回避」によって読者がどちらを読んだらよいか区別できるよう編集を努力すべきです。定義や記事内容において双方に大きな相違がなく、記事名の正当性を最重要課題とした重複項目の立項にとどまるのであれば、記事名を「九州の役・九州攻め」などとして、九州の役と九州攻め双方をリダイレクトページにするのも一案かと存じます(語順で争うほど意固地な論争であれば、馬鹿馬鹿しすぎてわたしには関知できません)。ここで、重複記事ではない、と言えると思われる一例を紹介させていただきます。イエス・キリスト(キリスト教で言われているところのイエスの人物記事)とナザレのイエス(福音書簡はイエスの言行録ではなく宣教文書であって実在のイエス像を描いておらず、史料を検証及び復元しないと実在のイエス像には迫れない、とする立場からのイエスの人物記事)という記事があります。独立した記事の要件としては、少なくともこれくらいの明確な内容の差が必要であると考えます。--ジャコウネズミ(会話) 2012年4月25日 (水) 16:40 (UTC)
- 重複記事である Wikipedia:コメント依頼/Chokorin 二回目20120315利用者名にコメントしたことがあるくらいです。導入部を見る限り将来的にも差異を出すことができるとも思えないです。改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考えて対処してほしいです。今の状態は読者と将来的な編集者にとって非常によろしくないです。新しいほうの記事をいったんリダイレクトページに戻して、放置することをお勧めします。読者にとってはそれが一番便利です。南京大虐殺の改名議論は今そのような状態になっています。あと、当事者の方はここでは付いたコメントにいちいち反論しないほうが有意義な結果が得られると思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月25日 (水) 17:38 (UTC)
コメント「重複記事である」とするならば、私は新しい記事ではなく既存の「九州の役」の方をリダイレクトページにするのが、読者にとって一番便利だと思います。これは当事者というよりは、「将来的な編集者のひとり」として申し上げます。この記事は、大半が小和田哲男の『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』や『名城と合戦の日本史』など「九州攻め」の語を用いた出典を参照して加筆されたものですが、その一方で、「九州の役#参照」を御覧いただければわかるように、参謀本部編集の『九州役』を参照して書かれた箇所は一切ありません。したがって、このコメント([4])のなかの「私としては、この記事のテーマ・構成・内容で質量共に最も詳しい出典が『九州の役』であり、記事本文も「九州の役」の呼称で扱っている出典群に比重を置いて記事が生み出されている以上、この記事と最も適合する呼称は「九州の役」であるという結論は動かせません」の部分はまさにデタラメもいいところです。そして、仮に、このロジックを記事内容・記事名にあてはめるならば、
- 記事の中身はこのままにして、記事名を「九州攻め」にする
- か、あるいは、
- 記事名は「九州の役」のままにして、「九州攻め」を出典に加筆された箇所は除去する
- かのどちらかでしょう。個人的にはどちらでもいいです。しかし、「改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考える」というのなら、答えはおのずから定まっていると思います。一番よいのは、「九州の役」を推す人たちが「九州役」だけを出典にして「九州の役」を立項してみることです。それでどれだけ記事が発展させることができるのか、まずは御自分が体験・検証してみてはどうなのかと思います。--Chokorin(会話) 2012年4月26日 (木) 10:48 (UTC)
コメント 英語版にはen:Wikipedia:Content forking#POV folksというガイドラインがあり、同一の主題を複数の観点の記事に分割することは基本的に禁止されているのですが、今回の例はそれに当てはまるかと思います。しかしそれ以前に、ノート:九州の役の経緯を見る限り、問題を腕ずくで解決しようとしたように見えてしまいますね。仮に分割するにしろ、経緯から言って合意の上で行うべきだったのでは。--Kurz(会話) 2012年4月26日 (木) 12:03 (UTC)
コメント 自分としては、根本的な疑問として、「なぜ、この記事が『九州の役』でなくてはならないのか」というのが、あるんですね。「九州の役」は、「Wikipedia:記事名の付け方」で示された5方針「認知度が高い」「見つけやすい」「曖昧でない」「簡潔」「首尾一貫している」のうちのどれにもあてはまらないうえに、記事本文そのものも「九州攻め」の呼称で扱っている出典群に依拠しているわけですから、記事名を「九州の役」のままにしておく理由(言い換えれば、改名提案者である秋田城之介さんにも合意していただいた「九州攻め」ではいけない理由)が何ひとつ見いださせないのです。角川書店『角川新版日本史事典』(1997)、山川出版社『日本史小事典』(2001)、平凡社『日本史事典』(2001)などでも見出し語として「九州攻め」が用いられており、その点では何の不都合もないわけです。「九州の役」が固有名詞で「九州攻め」は一般名詞だ——という指摘もありましたが、現実には、専門家はそんな区別をしていないのであって、もし、その理屈が正しいのだとしたら見出し語としては「九州の役」を用いる事典があってもよいはずなのに、実際は皆無なわけですよね。そんなふうに、その都度その都度方針文書にもない自分ルールを並べ、その挙げ句「投票で決着つけないことには認めない」というのも、私からすれば「腕ずくの解決」としか見えません。そして、公式ルールのみならず自分ルールからさえ外れた「九州の役」という記事名に、そこまでしがみつかなくてはならない理由もよくわかりません。そこまでしがみつくんなら自分で記事を起こすなり、大幅加筆するなり、あるいは全面改稿すればいいのにと思うのですが、それは絶対なさらないで、記事の加筆は基本的に他人任せのようにみえます。もしかしたら、「『九州の役』という一種マイナーな用語を(マイナーゆえに)もっと普及させたい」というような意図がおありなのかと勘ぐりたくもなります。今回の件については自重すべき点が私にもあったとは思いますが、「なぜ、この記事が『九州の役』でなくてはならないのか」という根本的な疑問は消えることがないだろうと思います。--Chokorin(会話) 2012年4月26日 (木) 13:23 (UTC)
頼むから当事者の方はいちいちコメントしないでくれ。特にここで3回もコメントしている人! あなたたちがしゃべると、他の人が意見を言う気をなくすだけだ。ここは第3者の意見を真摯に聞くだけにして、言いたいことはいつものノートの方で言ってくれ。--111.107.155.149 2012年4月26日 (木) 13:36 (UTC)
- 再度、注意を喚起します。こちらでコメントを求めているのは、ルールにある重複記事に該当するのか否か?と、その解決手段についてです。混乱の原因ですので、改名議論はノート、個人の問題行動についてはコメント依頼等へお願いします。
- (小括として)直近の判定としては「重複記事である」との認識が大勢を占めているようです。ただし解決方法としては、長期的な解決を望む声も多いですね。例えば、記事並立を時限的に2年(?)ほど認めていただけるのでしたら、その後に再判定をするような解決法が発展的な解決といえるかもしれません。もちろん重複記事が許されればですが。
- 週末以降にコメントされる方もいるでしょうから、今後のことはもう少し耳を傾けてからにしたいと思います。--Jaszmars(会話) 2012年4月27日 (金) 04:02 (UTC)
報告記事九州攻めは、即時削除基準: 全般8 初版投稿者による依頼または白紙化 により、即時削除依頼がなされました。--ジャコウネズミ(会話) 2012年4月27日 (金) 04:35 (UTC)
立項してしまったのはしょうがないし、「うまくやってみせる」と立項者本人がおっしゃっているのだから、九州攻めは放っておかれてはいかがでしょうか。「改名後に記事を巻き戻す」という二人の利用者間の口約束を正当な合意と見なすにしても、九州の役(九州征伐)に関係のある記述を再度加筆するのを止めることはできないし、今後そのような合意を形成できるとは思えません。逆に九州攻めに「役」や「征伐」について加筆してもいいし、合意を形成できるならあえて加筆しないという選択肢もありうるでしょう。例外的にOtherusesを張れば閲覧者様の混乱も避けられます。「征伐」と「役」の再投票の検討もあることですし、「今後の適切な合意を見据えて加筆するんだ」などと前向きに考えて、九州の役(九州征伐)の執筆に参加なされるのが、Jaszmars殿の活動にとっても最適だと思います。(蛇足ながら、「重複記事並立の時限を2年に」などと将来の話をしても解決策は出ないと思いますよ。2年後に考えましょう。)--伏儀(会話) 2012年4月27日 (金) 05:13 (UTC)
ジャコウネズミ殿のご報告を見落としてしまいました。即時削除された場合、私のコメントは意味を成さないことになるため、打ち消し線を引きます。ジャコウネズミ殿のご対応に感謝し、立項者殿のご決断を評価いたします。--伏儀(会話) 2012年4月27日 (金) 05:24 (UTC)
コメント 初版投稿者はChokorinさんではないですし、即時削除全般8で即時削除はできるのでしょうかね?(リダイレクトから記事化したという意味では実質上初版作成にはあたるのかもしれませんが……) 本当に即時削除されるかどうかは微妙なのではという気がします。--かげろん(会話) 2012年4月27日 (金) 23:46 (UTC)
コメント 状況が流動的のようですが、Chokorinさんがリダイレクトを外して独立項目とした九州攻めのこの版[5]については、改名議論中の九州の役の重複記事であると考えます。定義の異なる記事ならともかく、元記事の九州の役の定義「戦争」に対して、今回の記事は「侵攻戦・平定戦」の限定評価であり、内容を九州の役からコピーしていることからもルールに抵触しています。解決方法については、ご指摘のとおり改名の議論にエネルギーを注入せさせるをえない状況にある中で、記事の並立が許可されるのであれば執筆に力を注ぎ得るので、これがウィキペディア日本語版にとってベストな解決だと思います。その反面、近視的に「方針違反だ、ブロックしろ」と処分されては堪りません。議論中に蓄積した出典も色々ありますので、不毛な議論を停止するのであれば生産的に執筆の方向へ動きたいものです。なお、四国平定も四国攻めの重複記事と判定します。(Chokorinさんの行動については、数度目かつ事前に指摘があった上での腕ずくで解決しようとしたですので、Wikipedia:コメント依頼/Chokorin 二回目20120315利用者名へコメントしたいと思います)--Yasumi(会話) 2012年4月29日 (日) 00:23 (UTC)
報告 九州攻めをリダイレクトページから、九州の役からのほぼコピペで記事に仕立てた利用者:Chokorinさんは多重アカウント使用を理由に無期限ブロックされました。九州攻めは以前のリダイレクトページに復帰されました[6]。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 14:01 (UTC)
- 多くのコメントをいただけており、感謝いたします。さて、状況が急変して、にわかに舵を切ることがはばかられ、熟慮したいと思います。こちらでのコメントでは、該当記事が重複記事であることについては異論は殆どないように思えます。一方、意外なことに重複記事だとしても、将来的に別記事となることを見越して記事の並立を許容する意見が多かったことは意外でした。私としても、議論を続けるよりは記事の発展を優先させて、後に統合や独立の判断を仰ぐことが好ましい状態に思えました。
- 実は改名の議論中に重複を避ける方向での並立調停案を提案させていただいていました。下記に転載します。
- Chokorinさんは、口では本案を拒絶していましたが、実際に起こした行動は重複記事でしたが、九州攻めの独立であり、一旦は私の提案に乗った形が形成されました。この方向で、議論が解決できたら良いと思うのですが、ルール解釈の問題がついて回るので、ご助言をいただきたいと思います。管理者の方々より、議論の進め方だけでもご指導いただければ、ありがたいのですが当事者同士で話し合った結果が今ですので。--Jaszmars(会話) 2012年5月1日 (火) 04:47 (UTC)
今回は例外的に重複記事を認めてほしい、というご要望でしょうか。条件で異論があるとはいえ一度投票結果は出ていますし、Jaszmars殿は確か再投票を提唱されていたと思ったのですが。--伏儀(会話) 2012年5月1日 (火) 09:36 (UTC)
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- 素朴な疑問ですが、投票で結果が出た後に改名提案を提出する人がいたとして、果たして受け入れられるものでしょうか。よほど説得力のある材料(特定の用語が学会から排除されたなど)がない限り、決着済みの議論が蒸し返されたとしか受け取られないと思うのですが。2年議論してやっと投票にこぎつけ、「九州攻め」の立項で話がややこしくなるまでは再投票する流れで議論がまとまっていたし、Chokorin殿も重複記事の執筆を中断なされたでしょうに…。重複記事に加筆しようにも「定義に適合する」加筆の内容でもめるのは目に見えています。むしろ「柔軟な対応」とやらが余計に話をややこしくしているのではないでしょうか。「重複記事の流れで議論をまとめて見せますよ」と言われても正直信じられないのですが…。--伏儀(会話) 2012年5月2日 (水) 10:50 (UTC)
- 「再投票」については、ノート:九州の役の「投票要綱2」節をご確認ください。一度合意形成されてから、「九州攻め」の立項の話が出て、現在に至ります。「九州攻め」の立項については、Chokorin殿の中断によって解決したと思ったのですが。--伏儀(会話) 2012年5月2日 (水) 11:07 (UTC)
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コメント 例えば、一部の事例とはなりますが学校用の教科用図書(高校日本史)の使用例は議論で出されましたが、その日本史教科書のシェア(採択率)のデータは議論に上がってなかった気がします(教科書の採択率は『時事内外教育』ぐらいでしか入手ができないデータですが)。採択率のデータもあれば、現実にどの用語が現在の教育現場で多数派を占めているかの目安にはなると思いますよ(ただし、歴史用語はどうしても世代差が出るものなので厄介なのですが)。まあ、検定教科書を万能視するのも危険ではありますが考慮に入れる材料にはなるでしょう。定義に適合する加筆の内容は、その表記を押す人たちが基本的に各記事で主導するでしょうから、現在の改名議論よりは楽観視できるのではありませんか。話が合わない人同士の改名議論より、話が合う人同士の議論の方が結論出るのが早いと思いますがね。--かげろん(会話) 2012年5月2日 (水) 11:19 (UTC)
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「考慮に入れる材料にはなる」程度で受け入れられることはないので、安心してよいと思います。そもそも、「投票要綱2」節では賛成票のみしかありませんでした。割り込みの「九州攻め」の立項は解決したのに、なぜ蒸し返すのでしょう? 「話が合う人同士の議論の方が結論出るのが早いと思いますがね。」についてよく分からなかったのですが、「他の用語を支持するユーザの議論参加は認めず、該当の重複記事の執筆に参加するユーザのみ、議論に参加できるものとする」というルールを設けるということでしょうか? (質問ばかりで申し訳ありません。私の理解力の問題でしょうが、かげろん殿の言わんとすることがよくわからなかったもので)。--伏儀(会話) 2012年5月2日 (水) 11:38 (UTC)
コメント ルールを設ける必要はありません。というか、各位が押している記事の編集にそれぞれ注力してもらうわけですから、自身が押してない記事の議論に積極的に乗り込んでいくなんて状況はあまり考えられんでしょう。むしろ、自身が押してない表記の記事の議論に乗り込んで議論を混乱させてしまったらそれこそ議論妨害でアウトになりかねません。--かげろん(会話) 2012年5月2日 (水) 11:49 (UTC)
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- 例えば「征伐」の記事に「攻め」や「役」の用語が使われている出典に基づいて加筆したとしても、「攻め」や「役」を推奨する方から異論が出ることはないだろう、というのがかげろん殿の予測ということですかね。「征伐」という用語は中立性に問題があるという主張すらあったので、(そこまでいかなくても、体制側の視点であり、征伐される側を軽視している用語であるという指摘があった。)「攻め」や「役」の出典の加筆は認めないのではと思ったのですが。それとも「征伐」には「征伐」のみ加筆するというイメージでしょうか。複数の用語を同一の用語として使用しているケースも多いと思います。(なんか質問攻めにしているようで申し訳ありません。私がとやかく言ってもしょうがないので、ご面倒であればお返事は結構です。)--伏儀(会話) 2012年5月2日 (水) 12:04 (UTC)
「重複記事」で加筆が進むなら、反対するつもりはありません。(過去に「それでも「征伐」の語が使われてきたのもまた事実です」と同様の指摘を私もしたのですが、今度こそ聞き入れてほしいですよね)。ただ、一度投票したあとに「条件に不備があるので再投票を」といっておいて、今度は「重複記事を認めて加筆を進めましょう」と言い出すのは、それこそ「異論を出している場合か?」と思ってしまいます。あちらのノートでも改名議論の中断に反対意見が出ているので、「再投票」のときのように合意形成できると楽観視できないでしょう。ただ、「重複記事」を提案したからには、何かお考えがあるのでしょうから、「重複記事」こそがjpwpにプラスになる解決策であることを信じて静観しようと思います。あちらの私の反論も取り下げることにしましょう。--伏儀(会話) 2012年5月2日 (水) 12:57 (UTC)
重複記事はウィキペディアの明確なルール違反です。強く反対します。今議論に参加している編集者がいつまでもアクティブであることを前提とするような解決法は取らないでください。何も知らない編集者はWikipedia:ページの分割と統合#統合すべきでない場合に従って、一方をリダイレクトページにするはずです。問題を解決するどころか無関係な編集者まで巻き込んで問題をさらに大きくするおそれがあり、実際、九州攻めでは、それまで記事の執筆に関わっていなかったジャコウネズミさんがこの正しい対処法を取っています。どうしても九州攻めで記事を立てなければならないのであるのならば、記事のスコープを明確にした上で、コピペではなくゼロから執筆してください。--Bugandhoney(会話) 2012年5月2日 (水) 15:33 (UTC)
コメント 重複記事には反対します(個人的につい最近も記事内容の重複に反対して激しく揉めたばかりです)。改名議論に決着がつかないから、重複記事というのは×でしょう。九州攻めは白紙化削除やリダイレクトとして閲覧者に見せなくするのが正解でしょう(ジャコウネズミ様を支持します)。四国攻めと四国平定は一度統合して、場合によっては記事のボリュームを理由に分割すべきでしょう。歴史の専門家でない私には「平定」でも「征伐」でも「攻め」でも「役」でもおかしくないと思いますので、ブロック者を出す程に論争するのが理解しがたいです(これが竹島とか在日とかなら激しい論争になるのもわかるのですが)。--JapaneseA(会話) 2012年5月2日 (水) 17:54 (UTC)
- 的を得た意見だと思います。当事者間で重複記事で合意できるということは、「役」を支持している人であっても同じ内容の記事が「攻め」のタイトルで存在してもかまわない、「攻め」を支持している人であっても同じ内容の記事が「役」のタイトルで存在してもかまわない、ということであって、どちらかが明確に不適切であるということではなくて、基本的には当事者の間でさえどっちでもいいということだと思います。JapaneseAさんが挙げたような例ではこのような事態にはならないでしょう。一方を支持する編集者は他方が明確に間違っている、ウィキペディアの記事タイトルとして不適切であると考えるでしょうから。--Bugandhoney(会話) 2012年5月3日 (木) 12:55 (UTC)
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- 重複記事の一時容認に肯定的な意見は思ったより多く、ろう(Law soma)さん、ぱたごんさん、かげろんさん、ジャコウネズミさん、Yasumiさんの5人。否定的な意見はBugandhoneyさんとJapaneseAさんの2人。重複記事であること自体を否定したのがChokorinさん。Kurzさんはこの件については判然としないようです。私は、伏儀さんは当初意見から並立容認だと思ったのですが、並立後は容認だが、並立前なら反対ということでしょうか?
- それと前からいっている通り、一回目の投票に不備があるなんていってませんよ。そのまま、合意したルールを実施すれば、議論を凍結することになります。それより良い解決を図っていたのですが、ここまで多重アカウントを使うユーザー群が介入して、混沌となっている状態では管理者さん達に解決方法の裁定を委任したい位なのですが。--Jaszmars(会話) 2012年5月4日 (金) 05:18 (UTC)
- 私は、「説得するのも面倒だし、もう放って置いたら?」というつもりでコメントしたのですが、これを「並立容認」と受け取られるのであれば、私の説明能力が不足しているということでしょう。(ただ、重複記事の立項者殿が執筆の中断を決断なされたのは評価しております)。
- コメントを拝見しましたが、Jaszmars殿の心配事が何なのかよくわかりませんでした。「重複記事」で合意形成する見込みがなく、解決策も思い浮かばないというのなら、改名議論の主導を辞退されてはいかがでしょうか? 正直、この議論を最後まで主導できなかったとしても気に病むことはないと思いますよ。実際のところ、投票への障害がなにかあるのでしょうか? 一度「投票要綱2」で解決することにみんな賛成されておりますし、反対者だったChokorin殿も議論からの撤退を表明なされたではありませんか。多重アカウントについても、投票者全員へのチェックユーザーを今回も依頼すれば解決します。再投票実施の細かい条件をつめる必要は確かにありますが。
- また、管理者殿に解決方法の裁定を依頼したいとおっしゃっていますが、ちょっとよくわからないご提案だと感じました。投票の裁定を依頼したいということでしょうか?--伏儀(会話) 2012年5月4日 (金) 07:53 (UTC)
[編集] 日本語版Wikipediaの永久ブロック設置案
最近、ブロック中の利用者を見る限り、ソックパペットアカウントや荒らしアカウントが急増してるので無期限ブロックだと解除の可能性があるため解除の可能性のない永久ブロックを設置するのはどうでしょうか?--ASD123(会話) 2012年4月26日 (木) 09:20 (UTC)
- 反対します。単純な永久ブロック導入は、WikipediaがWikipediaたる精神を否定する可能性があります。Wikipediaの精神を担保するためには裁定委員会の存在が大前提となります。しかし、日本語版の現状では、裁定委員会を設置するには、越えなくてはならないハードルが大きすぎるようです。--アイザール(会話) 2012年4月26日 (木) 09:33 (UTC)
反対 現状のままでは反対です。ブロックとバンは違いますので。例え解除を当面認めない合意がなされたブロックであっても、それは技術的なアクセス制限であって、バン(追放)とは異なります。永久にしても有効かどうかは疑問ですし。裁定委員会の設置を先にする必要と現状分析についてはアイザールさんと同意見です。--ろう(Law soma) D C 2012年4月26日 (木) 09:39 (UTC)
コメント 単純な話ですが「間違えて永久ブロック」してしまう可能性についてはどうお考えなのでしょうか。At least, この可能性については提案者が先回りで書かなければならないくらいの次元かと思うのですが。突っ込まれてから考える/応えようとしてますか?--にの(会話) 2012年4月26日 (木) 09:44 (UTC)
反対 反対します。ブロックされた理由を真に理解して反省し、wikipediaが事典を作るプロジェクトだと理解し、同じことを二度と繰り返さない、と確信できるならば誰であれブロックは解除されるべきものです。刑法の死刑ではないのです。ただ、例えば、Aという行為でブロックされ、「今後は2度とA行為は行わない」と誓って解除されたのに、解除後にA行為を繰り返して再ブロックされたような場合は再解除は極めて難しいだろうとは思いますが、最初から永久という設定は必要有りません。--ぱたごん(会話) 2012年4月26日 (木) 10:09 (UTC)
反対 永久ブロックでもブロック破りを防ぐことはできず、無期限ブロックでもブロックされた利用者がブロックを解除することはできません。(でないとブロックの意味がありません。)ASD123さんは無期限ブロックが自動的に解除されてしまうのではと思っているのかもしれませんが、そんなことはありません。--プログラム(ノート/履歴/ログ) 2012年4月26日 (木) 13:13 (UTC)- (提案無効)提案者も投票者も、何かWikipedia:追放の方針とごっちゃになっているようなんですが、「設置案」も何も、もともと「永久ブロック」そのものは既にあるんですよ。ただ、jawpでは現在に至るまで誰にも適用されていないというだけのことなわけで。
...というわけで提案は無効。このまま終了でいいでしょう。Yassie(会話) 2012年4月26日 (木) 14:06 (UTC)
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- Wikipedia:追放の方針は日本語版ではまだ採用されていないし,適用もされていません。適用される見込みが今のところ無いからこそ、こういう提案がされているのです。--ぱたごん(会話) 2012年4月26日 (木) 14:27 (UTC)
- あなたもまた、「永久ブロック」とWikipedia:追放の方針がごっちゃになっていますね。Yassie(会話) 2012年4月26日 (木) 14:33 (UTC)
- Wikipedia:追放の方針は日本語版ではまだ採用されていないし,適用もされていません。適用される見込みが今のところ無いからこそ、こういう提案がされているのです。--ぱたごん(会話) 2012年4月26日 (木) 14:27 (UTC)
反対 追放の方針そのものの存在意義が問われかねないかもしれないけど、現時点では反対です。ちなみに私はですけど、無期限ブロックされた者が復帰できたというのは聞いたことがありません。--ミラー・ハイト(会話) 2012年4月26日 (木) 14:35 (UTC)
コメント 永久ブロックが適用される例は、深刻な荒らしをするユーザー(今後も荒らしを続けるユーザーのみ)や会話ページか保護されてブロック解除の可能性がなくなったユーザーやソックパペットアカウント(例えば、アカウントAが荒らしで無期限ブロックされてBアカウントが作成されてBアカウントがアカウントAのソックパペットの疑いで無期限ブロックされて後にアカウントAのソックパペットの可能性が確実になった場合など)などです。--ASD123(会話) 2012年4月27日 (金) 09:24 (UTC)
反対 現状の無期限ブロックで充分でしょう。ある一定期間を置き、優良な執筆者として復帰してもらえるかもしれないという可能性をも奪うのは忍びない。なお、ASD123さんへ。あなたの発言に対して、様々な方が助言をされています。ご自身の会話ページを今一度お読み下さい。--静葉(会話) 2012年4月27日 (金) 10:27 (UTC)
反対 ただし、裁定委員会の設置とともに追放の方針を整備することに関しては特に反対しません。--Himetv 2012年4月27日 (金) 11:39 (UTC)
コメント 本件内容には賛成も反対もしません。しかし、アイザールさんの 2012年4月26日 (木) 09:33 (UTC) の意見のとおりだと「日本語版WikipediaはWikipediaの精神を担保していない(故に、正:当なWikipediaたり得ない)」ということになってしまうのでは?--182.164.179.93 2012年4月29日 (日) 16:53 (UTC)
コメント現在のブロックの仕組みを把握していないのですが、IP識別のみによるのであれば、永久ブロック設置には反対します。プロバイダ等を変更できる者に対しては効果が薄く、それがままならない経済的弱者等に対しては不利に働くからです。コンピュータの個別識別とIP識別を組み合わせて行っているのであれば、かなり厳密なブロック機能であるのでしょうが、その場合の永久ブロックはいわば「死刑制度」のようなものであり、適用にあっては厳格な運用基準の整備が必要と考えます(この場合において日本語版Wikipediaの存亡にかかわる重大な破壊活動を行う編集者に対し「最終兵器」として永久ブロック設置を整備することにはあえて反対致しません)。--ジャコウネズミ(会話) 2012年4月30日 (月) 01:30 (UTC)
賛成 Wikipediaには問題ユーザーが多数存在しますので永久ブロックが必要だと思いました。--182.169.80.138 2012年5月2日 (水) 08:06 (UTC)
[編集] 近代デジタルライブラリーのアドレス変更について
国立国会図書館が提供する近代デジタルライブラリーの運用について一部変更が告知されています[8][9]。基本的には「近代デジタルライブラリー」は「国立国会図書館のデジタル化資料」へ統合する。ただし、当面著作権切れの画像については近代デジタルライブラリーのアドレスでもアクセスできるようにする。といったサービスのようです。これに伴っていくつかの変更点があるようです。
- http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00051 といったアドレスは変更に伴って画像へのリンクが切れる場合がある。よって、これらのリンクは永続識別符号方式のアドレスに改める必要が出てきます。
- 新しく移行する近代デジタルライブラリーには書誌情報が画像データと一体型になるため、http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php?JP_NUM=21366711といった書誌情報へのアドレスは5月7日からリンク切れになる。(このリンクはもともと非公式のものであるらしい)
- http://kindai.ndl.go.jp/ で検索した場合、著作権が切れているものしか検索できない(上記で述べたように統合で廃止になる可能性あり)。
- http://dl.ndl.go.jp/ の場合は画像は国会図書館でしか見れないものも存在するが、書誌情報等には国会図書館外部からもアクセスできる。また古典籍・貴重書データはhttp://dl.ndl.go.jp/ のアドレスからしかアクセスできなくなる(著作権法の改正如何では、地元の公立図書館でもアクセスすることができるようになる可能性あり)。表示された画面からその他の画像が広範囲に検索できる。また、官報・国会議事録なども検索可能になります。
よって、一部は早急にアドレスを置き換える必要があると思います。 提案としては、
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- 1.についてはhttp://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?が含まれている2012件について、http://dl.ndl.go.jp/永続識別符号といったリンクにBOTで置き換える。(利用者サブページに置いてあるものを含め実施予定。利用者サブページを編集されたくない場合は、{{nobots}} で除外することができます。)各リンクに対応する永続識別符号データは一部既にリンク切れになっているものを除き取得済。(削除依頼などwikipedia名前空間があった場合どうするかの対応もご検討下さい。)
- 2.http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php?JP_NUM=21366711といったリンクはNDLサーチのapiを使用しての検索結果へのアドレスへbotで変更する。このままであると1033件がアクセス不可になります。
- 3. http://kindai.ndl.go.jp/ のアドレスをhttp://dl.ndl.go.jp/ に変更する。
これらの変更についてご意見賜りたいと思います。--Vigorous action (Talk/History) 2012年4月27日 (金) 08:06 (UTC)
- (中身には触れずnobotsの件についてのみ){{nobots}}は、影響力のとても大きなテンプレートです。これ一つで、外部リンク整備などをはじめとする、ほぼ全ての有用なBotを排除してしまいます。記事やそのほかの共有するページへの使用には特に慎重になってください。今回の件で、Botによる修正を排除したいとお考えの方は、このページか、合意後のBot作業依頼のページで表明していただければ、個別での対応は可能かと思われます。御協力をお願いいたします。--Triglav(会話) 2012年4月27日 (金) 13:03 (UTC)
コメント 本題からは外れますが、前々から思っていることを。複数の記事からID付きでディープリンクを掛けるような外部サイト参照のリンクURLは須く、参照先サイトの構成変更に容易に対応できるようにするために、{{YouTube}}のようにテンプレートでラップしておくほうがいいのではないかと思っています。テンプレートにしておけば、一括してURL変更することが容易です(かなり過去に書いたこともそういう観点から来ています)。また、IDの振り直しが必要な場合でも、パラメータを追加して新旧の両IDを指定できるようにしておき、外部サイトのシステム移行が完全に終わった後で旧パラメータを除去するなどの対策も容易に取れると考えます。外部サイトのシステム変更に伴って、botでそこら中の記事を変更していくような手間を掛けるのは面倒かなと思っていますので、手間の軽減を図ることができるような仕組みに変えていくほうがいいと感じています。3よりも前に行う必要はないですが、3より後でいいのでテンプレート化をやっておくほうがいいのではないかと感じました。--NISYAN(会話) 2012年4月28日 (土) 00:21 (UTC)
コメント {{近代デジタルライブラリー}}といったものがあるようです。ただ、コマ指定が可能なのか確認は取れていません。また、{{近代デジタルライブラリー書誌情報}}や{{近代デジタルライブラリーURL}}といったものもあるようですが、この2つは2番へのリンクとなっており現状テンプレートの意図と異なったものになっているようです。{{NDLサーチ}}のようなものを作成してjp_no以外も検索できるようなものに変更するのもひとつの方法かもしれません。(私はテンプレ系は詳しくわかりません。)--Vigorous action (Talk/History) 2012年5月8日 (火) 08:46 (UTC)
コメント 付随した話題なのですが、botが直すにしろ人間が直すにしろ、この手のはプロジェクト:外部リンクとかで上手く運用したいですね。他にもこのあたり[10] なんとかしたいなぁと思っているのですが…。--Tondenh(会話) 2012年4月28日 (土) 15:43 (UTC)
- 上記で反対意見がなかったことから、取り急ぎリンクの切れる2番につきまして手分けして作業を開始いたしましたことを報告いたします。--Vigorous action (Talk/History) 2012年5月6日 (日) 14:43 (UTC)
- 2番については全国書誌番号で表示されていたものは変更完了しました。キーワードで検索されていたものは文字コードの再変換等が必要であることから、現在順次変更しています(残60件弱)。あとリンク先のないもの(http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php )などは利用者ページをのぞき除去する方向(リンク先が推測できる場合は置き換え)を考えています。ご意見ございましたらどうぞ。--Vigorous action (Talk/History) 2012年5月8日 (火) 08:46 (UTC)
- 上記で反対意見がなかったことから、取り急ぎリンクの切れる2番につきまして手分けして作業を開始いたしましたことを報告いたします。--Vigorous action (Talk/History) 2012年5月6日 (日) 14:43 (UTC)
[編集] どのような状態をリンク切れとするか
ウィキプロジェクト向けか迷ったのですが、適切かどうか悩んだのでこちらで相談させてください。
ノート:CanCamからの議論で、どのような状態をリンク切れとするか悩みがあります。
- http://ci.nii.ac.jp/naid/110008441257 記事本体
- http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0009683450 上のオープンアクセスリンク
- http://ci.nii.ac.jp/els/110008441257.pdf?id=ART0009683450&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1335528301&cp= 最終的な記事ページ
現在リンクには3) 形式が用いられていますが、私の環境ではこれは2)のリンクを踏んでセッションが作成されないと表示できない様子で、一定時間後には3)にてアクセスしても記事が表示できない様子です。
お聞きしたいのですが、他の利用者の方も上の現象は再現するでしょうか? 他のデータベースサイトだと「学術ネットワークや図書館端末経由だとリンク切れしないよ」という報告もあるので。。--Tondenh(会話) 2012年4月28日 (土) 02:33 (UTC)
- とりあえず3だけを開いてみましたが、エラーを表示しました。その後2を開くと読み込みができました。「学術ネットワークや図書館端末経由だとリンク切れしない」のはログインしているためといったことは考えられるかと思います。cinii場合は直接pdfへのリンクを張るよりhttp://ci.nii.ac.jp/naid/110008441257 へリンクさせるか、apiでhttp://ci.nii.ac.jp/openurl/query?rft.atitle=%E8%B5%A4%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B3%BB%E9%9B%91%E8%AA%8C%E3%81%AE80%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9 や http://ci.nii.ac.jp/openurl/query?rfe_dat=naid/110008441257 、http://ci.nii.ac.jp/openurl/query?rft.atitle=%E8%B5%A4%E6%96%87%E5%AD%97%E7%B3%BB%E9%9B%91%E8%AA%8C%E3%81%AE80%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%AE%B9&rft.issn=13461869 といったリンクのを貼る方がいいかもしれません。上記のリンクは全て同じものが表示されるはずです。APIで検索の場合ですとタイトルやその他のキーワードがいれれますから何かの都合で永続識別符号が変更されても、またapi仕様の変更などが事前に広報されるのでメンテナンスを行い易いように思います。なおAPI(OpenURL)の仕様はこちらで確認できます。--Vigorous action (Talk/History) 2012年4月28日 (土) 08:48 (UTC)
- 検証ありがとうございます。仕様書を読んだのですがpdfを直接取得するAPIは提供されていないようですね…。1)形式をPermalinkとして運用するのがベターでしょうかね。。--Tondenh(会話) 2012年4月28日 (土) 11:57 (UTC)
- ciniiに限らずどこのデーターベースにしても基本的にpdfなどへの直接リンクはあまり推奨されないようです。--Vigorous action (Talk/History) 2012年4月28日 (土) 12:36 (UTC)
- 検証ありがとうございます。仕様書を読んだのですがpdfを直接取得するAPIは提供されていないようですね…。1)形式をPermalinkとして運用するのがベターでしょうかね。。--Tondenh(会話) 2012年4月28日 (土) 11:57 (UTC)
- 同じ症状が出ました。仕様のようです[11]。URLの削除でいいと思います。もう一点付け加えると、NAIDが設定されている上でCiNiiへのURLも加えるというのでは、冗長で意味がないと思います。PMIDを設定してURLにも(今のところ)同じPubMedのアドレスを設定する、というのはあまり行われていないと思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 13:46 (UTC)
- 確認ありがとうございます。en:Wikipedia:Citing_sources#Links_to_sourcesでも学術DBを検索するに足りる情報で十分、といった話になっている様子でした。--Tondenh(会話) 2012年5月2日 (水) 13:22 (UTC)
[編集] ソックパペットの捉え方
こんにちは。Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック/ソックパペットについて教えていただけないでしょうか。因みに私の理解は以下のようなものです。
- 当該伝言板は、通常のCU依頼を検討する場合などのプロセスを踏んでいる時間がない、急を要する事案に対して活用する(活用してよい)場である。
- ブロック解除依頼に関する議論の場で、解除を企む被依頼者が靴下人形を操っている(いた)と報告することは当該伝言板の趣旨に沿っている。
- 報告者はある程度の合理性を持ちながらも、どのアカウントが靴下人形かと推測する裁量を持つ。
- 当該伝言板に書き込んだ事を、当人やコミュニィティに周知する必要はない。
- 当該伝言板に書き込んだだけでは個人攻撃には当たらない。
- CU係の管理者の判断は、(状況把握しCU見送り)・(状況把握し実際にCU、後にブロック)・(CU後靴下人形と認定してもなにもしない)。以上の3種類しかない。
実はWikipedia:コメント依頼/Riderhinoで議論となっているのですが、明確な答えが提示されず膠着状態となっています。井戸端をはじめほうぼうを探しましたが、答えが得られないためここに書き込ませていただきました。何卒ご教授いただきたく存じます。--Riderhino(会話) 2012年4月28日 (土) 11:00 (UTC)--Riderhino(会話) 2012年4月28日 (土) 15:28 (UTC)(訂正)
- それから、これは少し違う質問ですが、チェックユーザーを受けることを恐れる人がいます。判明したらブロックの対象となるようなソックパペットを操っていないのであれば、なにも恐れる事はないと思うのですが--Riderhino(会話) 2012年4月28日 (土) 22:23 (UTC)
コメント Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロック/ソックパペットの冒頭に、「投稿ブロック中のユーザーのブロック逃れについて報告するために設けられたサブページです。」と書いてあります。ソックパペットのサブページへの報告対象はそれ以上でもそれ以下でもないはずです。したがって、Riderhinoさんの通報は、前提条件からして崩れており、通報するタイミングとしては不適だったと思います。
- 1について、通常のCU手続きを最優先にするのが当たり前だと思います。今回の事案は、急を要する案件だとは全く思えませんし、ソックパペットを疑った段階でCU依頼の提出準備を進めていた方が日数無駄にせずに済んだでしょうね。要は「急がば回れ」です。本気で急を要する案件であれば、おそらく管理者さんやCUさんが裁量で動くでしょうと善意で考えておくぐらいでいいんじゃないかと。
- 2について、ブロック中の被依頼者が確実にソックパペットを使っているだろうと言える状況なら報告しても問題ないでしょう。ただし、まずはLTAとかIPとアカウントの使い分けとかのパターンでない限りは、まずCU依頼のプロセスを経るべきです。
- 3・5について、ソックパペット疑惑を推測するのは各利用者の勝手ですが、その責は各利用者が負わなければなりません。不必要に他者に対してソックパペット疑惑をかけることは、礼儀に反する個人攻撃・悪質な印象操作となります。「管理者伝言板に書き込んだだけでは個人攻撃に当たらない」というのはずいぶんとご都合主義な解釈ですよね。
- 4について、関連する議論場所があったとするなら、一応は報告しておくのがマナーだと思いますが。
- 6について、CU依頼の過去ログ読めばわかることでしょうと……。
- 以上、こんなところでしょうか。--かげろん(会話) 2012年4月29日 (日) 00:10 (UTC)
かげろんさん。お忙しい中コメントを賜りまして誠にありがとうございました。 ご指摘のように、私の解釈が間違っていたようです。4の報告の件につきましては、むしろ当該ブロック議論に影響を与える恐れがあるとの考えから、報告はいたしませんでした。マナー違反であるとのご指摘ですが、やはり、ブロックの被依頼者に有利(印象操作)に働く恐れがあると考え、むしろ報告をしないほうがよいと考えた次第です。ただご指摘については今後は十分に念頭において行動したいと思います。--Riderhino(会話) 2012年5月4日 (金) 01:54 (UTC)
コメント◆まず最初に根本的な話として安易に他人をソックパペット呼ばわりしてはいけません。ましてや議論の場で意見の対立した相手をソックパペットとして排除しようとするなど厳に慎むべき行為です。- 次に手続き的な話に関してはかげろんさんの意見に概ね同意しますので省略します。その上でいくつか補足を。
- 2項についてはそもそも不要です。ブロック依頼/ブロック解除依頼は管理者権限の行使を依頼する場です。その場で行われている議論が管理者の目にとまっていないはずがありません。不適切な行為が行われていると判断されれば管理者の裁量により何らかの措置が取られるでしょう。逆に言えばその時点で管理者の介入がないのであれば伝言板に通報しても特段目新しい対応はないと思います。ソックパペットと決めつけられた相手からの反発以外には特に効果は望めないでしょう。
- 3項についてもそもそも第三者を納得させられるだけの合理性を有する説明が必要であり、「ある程度」では全く不十分です。また、管理者伝言板への通報を行うか否かは最終的には通報者自身の判断で行うものですからそういう意味では通報者の「裁量」といえますが、だからこそその判断に対して異論や批判が出されたときは通報者自身が責任を持ってその声を受け止める必要があります(裁量というのはそういう意味でしょう)。
- 最後にCUを嫌がる利用者について。誰かが誰かのソックパペットであることを客観的に証明することは容易なことではありませんが、それ以上に自分が誰かのソックパペットではないことを客観的に証明することは困難な作業です。他人に疑いを抱いたのなら第三者が納得できるだけの合理的な説明を示しすのは、疑いを抱いた側の責任です。その説明に第三者の同意が得られればCU依頼を行うことも可能でしょう。しかしそうした十分な説明責任を果たすことなく疑われた側に「CUを受けて身の潔白を証明しろ」と要求するのはずいぶん身勝手な主張です。--M_aisawa(会話) 2012年4月29日 (日) 02:53 (UTC)
M aisawaさん。お忙しい中コメントを賜りまして誠にありがとうございました。 今回の私の行動は、かげろんさんにも申しましたように軽率だったようです。その上にかなり厳しいお言葉を頂いておりますことは、コメント依頼のなかで最初に「みなさんどう思われますでしょうか。」との問いかけを怠った事が一因であると考えますので、大いに反省しております--Riderhino(会話) 2012年5月4日 (金) 01:54 (UTC)
- 少し補足で。一般論的に。
- 急を要するというよりは、状況を見ればCUの必要がなく明らかにソックパペット(だと思われる)場合、です。削除依頼と即時削除の関係に似ています。
- まず依頼のノートページで議論するのがよいと思います。のち、状況に応じて必要であればCU依頼へ。依頼系のページを管理者が見ているとか、裁量でなにかするとかいったことは、必ずそうとは限りませんし、疑問の提起を妨げるものではなく、複雑な状況の整理は好ましいものです。ただ、あまり慣れていない人は変に手を出さないほうがいいとは思います。といっても「慣れていない」ことが原因で不利益をこうむるのはよろしくないので、新規参加者を苛めない方向で対応はされるべきです。
- 「ある程度」の意図にもよりますが、上の各コメントの通りです。
- 場合によります。特徴の明らかな長期荒らしなどについて、愉快犯である場合は特に、いちいち対象アカウントに知らせるものではないでしょう。一方、ブロックされたばかりのアカウントのブロック逃れや、長期間休眠していた荒らしの活動再開があった場合などは、動向に注視している人がいるのであれば、情報の共有は有益です。今回の例には、あまり関係ないかもしれませんが。
- 疑いの合理性によりますが、1 に準じた判断だと思います。
- ソックパペットをブロックするのは、CU係だけとは限りません。
- ご参考になれば幸いです。--Calvero(会話) 2012年5月4日 (金) 05:30 (UTC)
[編集] 方針違反などを理由にした、提案や議論なき大量削除の是非
ある利用者さんが、方針違反や「ここに書くべき内容ではない」、過剰という事を理由に(要約欄に記載)ノートでの提案や議論をせずに記載内容の大量削除を行っているのを見つけました。確かに、そういった事であれば削除されても仕方ないとは思いますが、突然何の断りもなくそれだけの量を削除するのは執筆者さんも驚かれるでしょうし、それを見た私もどうなのかと感じます。たとえそのような理由であっても、ノートできちんと議論なり告知なりをすべきだと思いますし、利用者さんによって考え方や捉え方が異なることもあると思います。それに、要約欄だけではうまく理由が伝わらない場合もあると思います。それでも、このような理由なら何の断りもなく突然大量の削除をしても良いのでしょうか。--Sun250ba(会話) 2012年4月29日 (日) 14:18 (UTC)
- もし、異論があるのであれば、その編集をリバート(差し戻し)して、その編集には異論があることを示し、逆にそれを受けた相手がなおその編集内容のために合意の努力をするのであれば、問題はないと思います。この場合に、最初に除去を行ったユーザーも、リバートをかけたユーザーも、その後の結果はどうであれ、行為自体の是非は問われません。また、氏は「そういった事であれば削除されても仕方ないとは思いますが」とおっしゃっていますが、雪球条項というのがありまして、地獄の雪玉が生き残るほどの可能性もないならば、全然構いません。10回やって1回異論が出るかどうかの編集で、10回逐次手続きを取ろうが取るまいが、異論が出た1回を真摯に対応すれば、それで何も弊害はないわけですよ。
- ただし、合意形成をスムーズに行うために、事前の告知をすることを否定するわけではありません。特に最終的な結論はどうであれ、異論が出ることが十分に予想できるなら、事前の告知はした方がいいでしょう。--EULE(会話) 2012年4月29日 (日) 14:45 (UTC)
コメント 議論の余地なく明らかに不要、独自研究、出典皆無、blp案件であれば私でも大量除去を行ないますし、ウォッチリストでお見かけしましても、特に何も行ないません。もちろん事前告知を行ないたい方は、行なっても良いのですが。その除去について異論があるのであれば、ノートでそれを提議し、リアクションが無いのであれば会話ページで連絡して下さい。その際、あなたが差し戻しを行なうかどうかは任意です。方針・ガイドライン・社会常識・法令などに照らして除去も致し方ないのであれば、差し戻さない方がよいでしょう。方針・ガイドライン・社会常識・法令などに照らして著しく不当な除去であるとお考えであれば、差し戻すべきでしょう。微妙な線であればそこは臨機応変に。全部差し戻さなくとも、どうしても必要な一部の復帰だけでもよいのです。ただし、個人的な感覚ですが、必要を確信するなら一度は除去してもよいですし、強い異議が有れば一度は差し戻してもよいのでしょうが、そこまでです。それ以上は編集合戦です。ただちに編集を停止しノートでの対話を開始、必要であればコメント依頼や井戸端をご利用下さい。案件について法的なリスクがあるのであればWikipedia:管理者伝言板かWikipedia:保護依頼でご相談下さい。--Hman(会話) 2012年4月29日 (日) 14:54 (UTC)
コメント 具体的にどの記事のことなのか書いてくださらないとなんとも言えませんが、>『たとえそのような理由であっても、ノートできちんと議論なり告知なりをすべきだと思いますし、利用者さんによって考え方や捉え方が異なることもあると思います。』内容が分かりませんが、もしも、除去された部分が出典の明記されていない記述であるならば問答無用で削除されても文句は言えません。穏便には「出典がないので削除した」旨を要約欄かノートに書いたほうがいいでしょう。特に初心者だと何故?自分の記述が削除されたのか分からないかも知れません。初心者相手には何故、除去したのか分かるようにしてあげて、検証可能性の案内をしたほうが親切です。ただし出典のない記述は大量であっても「事前の議論は不要」で「事前に断ることなく」削除して構いません。親切は推奨であって義務ではありません。尚、出典が無い記述を削除され、それを出典つけることなくリバートしてはいけません。出典をつけてから記述を復帰させて下さい。--ぱたごん(会話) 2012年4月29日 (日) 16:29 (UTC)
コメント余人の目に余る書き込みをした者が第一者、議論や告知なしに削除した者が第二者、双方の行為に気付いた者が第三者として、第一者はその編集(書き込み)行為が法やWikipediaの編集方針に違反していれば法とルールの範囲内において法的及び道義的責任を負い第二者によって削除されても一般論としてその責任が消えるわけではない、第二者はその編集(削除)行為及び編集方針についてWikipediaの編集方針に違反していなければ一般論としてペナルティを科せられる義務を負わない、第三者には何かしらのアクションを起こさなければならない義務は存在しない、ということだと思います。記事内容として相応しくない書き込み、というのは記事に対する考え方の相違、というものがあり判断が人により分かれる事態も想定できますが、当該編集の削除において全て事前通告とすると、レスポンスがないときに、ではいつ不適当な記述を削除したらよいか、という問題が発生します。第二者にはその良識と責任においてその場で大鉈を振るうことも許されるべきと考えます。第二者は同時に異論があればどうぞと、編集要約欄でノート等を案内、必要であればノートで議論、個人的問題に帰す面が大きくかつ第一者がログインユーザである場合には第一者の会話ページにおいて議論を持ちかけることも可能であり、わたしはなるべく大きな編集削除した場合はそのようにしていますが、これらのアフターケアは第二者が負わなければならない義務ではなく、あくまで以降の記事編集を合意のもとに進め、かつ感情論的に残る遺恨を軽減させる配慮であり、記事編集に振り分け可能な労力をそちらに裂かなければできない事であるということを、第三者をはじめとする一般の編集者も認識しておいた方が良いと考えます。--ジャコウネズミ(会話) 2012年4月29日 (日) 16:49 (UTC)
[編集] 交通アクセスについて
最近新規立項される施設に関する記事で、「交通アクセス」などといった節を用い、「○○駅より×分」などと言った情報が記述されていることが多いように感じましたが、このような記述は百科事典として適切でない、また独自研究に含まれるような気がするのですが、結局のところどうなのでしょうか。もし除去した方がいいなら、見かけた際に除去しよう(進んで検索までして除去する意図はありません)と思うのですが、ここら辺りよく分からないので、皆さんの意見をお伺いしたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。--リョリョ 2012年4月30日 (月) 11:15 (UTC)
- 観光地などで出典(ほぼ公式サイト・パンフレットからだと思いますが)に書かれている時間をさらっと記載する程度なら問題ないかと思うのですが、出典無しで「徒歩23分」「○○駅から徒歩で国道△△号に向かいそこからバスに乗ると便利」みたいな表記があればやっぱり「え?」となるかと思います。なお観光地でもない企業や商業施設だと不要な気がします。(出典があっても)--にの(会話) 2012年4月30日 (月) 11:33 (UTC)
- 一律…というのも弊害があるように思います。まあWP:NOTに示される「ガイドブックじゃない(WP:NOTGUIDE)」辺りの考えを鑑みれば「最寄り駅から何分」ってのは旅行ガイドにでもあればいい事柄であるならば除去やむなし(公的に示されたものでなければ独自研究の虞を含むし)…ともできるかと。ただ、考え方として商業施設や何某かの公共性の高い施設があって、そこへの交通アクセスの便が良いことが施設の性質を説明する上で重要視(特筆に価する)できるなら、それは無理に除去する必要も無いのではないかと考えます。例えば基町クレドという広島の複合商業施設なのですが、市の主要地域中心部にあるという性質を説明するにあたり、いくつもの交通拠点(バスターミナル・アストラムライン・路面電車など)が直結(最寄り駅/ターミナルを降りたらすぐ施設がある)されていることを書けば、その施設がどんだけ交通の便がよい市中心部にあるかが判りやすいかと思います。また、同じく広島市にある原爆ドームですが、やはりとても交通の便が良い市の中心地であることが判りますし、また原子爆弾が人類史上初めて市街地で使用されたという負の遺産でありながら、復興によって再び活気のある市街中心地に組み込まれていることを交通アクセスの便の良さを持って説明できるように思います…「人間の営みスゲー」ってなもんで。まあ斯様な考えもあり、注意深く・時にはノートページなどでの問題提起と対話を持って慎重に対応するくらいでちょうど良いのではないのでしょうか。--夜飛(話/歴) 2012年4月30日 (月) 11:54 (UTC)
-
- 「○○駅より×分」に出典があるのなら、その施設(「Wikipedia:特筆性」を満たす)の性質をを問わずに記述して何ら問題なく、除去する理由はないと考えます。なお、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません」に抵触するから記述不可、というのであれば、その施設についての記事は「Wikipedia:特筆性」を満たさず、記事そのものが除去されるべき、ということでしょう。 --Pooh456(会話) 2012年4月30日 (月) 12:01 (UTC)
コメント 何にでもつけるのも何からも除去するのも、恐らく悪手です。公共施設・娯楽施設・商業施設など以外の場合で一定以上に詳細なガイドが必要であることは希でしょうが、そうでない場合、「○○駅から徒歩○分」は、下手に住所を書くより、その施設のある場所を雄弁に物語る場合があります。駅前にどんと鎮座していること自体がその施設の特筆性の一部を担っているのかもしれません。「○○駅から路線バスで180分(約300km)」もそれはそれで、「どんだけ田舎のジャスコだよ!」などと、題材に対する理解の助けとなるでしょう。結局は題材の性質とご相談の上、当該記事の執筆者同士でお話し合、ということになりそうです。なお、○○駅より徒歩○分、などの記述について、確かな典拠が求められるのは当然のことですし、必要以上に詳細にする必要もありません。ほとんどの場合、「大体」で良いのではないでしょうか。詳細に記さねばならないケースがちょっと、思い付きませんね。--Hman(会話) 2012年4月30日 (月) 12:14 (UTC)
コメント 対象となる施設などにより徒歩何分などという記述があればともかく、地図ソフトなどによる計測(単に地図上の距離からの推定)などで記述するべきものではないと思います。--Tiyoringo(会話) 2012年4月30日 (月) 12:35 (UTC)
コメント けっこう難しい問題だと思います。相田みつを美術館を加筆したときに、「ウィキペディアはガイドブックではない」という方針を知っていたのでずいぶん悩んだのですが、結局「定期観光バスが出ている」という情報を書き加えました。とりあえず、出典があることが必要条件だと思います。それで、その施設のパンフレットに書いてある、というだけでは弱いかなと。一次情報ですし、宣伝とも受け取られかねないと思います。ですから、交通アクセスに関して、外部の第三者による言及があるかどうかが判断基準になるのではないかと。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 13:32 (UTC)
コメント みなさんご意見ありがとうございます。私が気になったのは主に教育機関のページでして、八代市立八代小学校、八代市立代陽小学校など、この投稿履歴に該当するものが初めです。学校、しかも小学校において、交通アクセスの記載は特筆すべき項目なのかと疑問に思いまして。教育機関以外で気になったのはやながわ希望の森公園の記事です。確かに他の方の例にありますように原爆ドームですとか、立地の関係する商業施設などは特筆性があるように思いますが、この判断基準が非常に微妙なラインであると感じます。これを踏まえてもご意見がある方は引き続きよろしくお願いします。--リョリョ 2012年4月30日 (月) 14:05 (UTC)
コメント これが大学や、有名高校でしたら、ある程度記述しておくべきでしょう。アトランダムな思い付きで龍谷大学を見てみましたが、やはりアクセスについての言及もあり、何の違和感もありません。しかし・・・その小学校記事は、アクセスと近所の施設ばかりで、果たしてどうしたものか・・・。アクセスが必要とか不要とか以前の問題かとは思いますが、スタブであればやむを得ないところなのでしょうか。そもそもこの項目、アクセス自体が詳細すぎる気がします。現地の地理に明るい人がちゃんと資料を参照し、箇条書きではなく文章のかたちで執筆なさられれば違和感も無くなるのでしょうけど。--Hman(会話) 2012年4月30日 (月) 14:16 (UTC)
- 学校の…ということですと、最寄り駅からの「徒歩何分」を書く意味があるのか悩ましい感じがありますね、確かに。まあ学校の生徒・学生などが該当駅から主に通学する、かつ学校資料に「何処其処の駅から通学するように」などで所要時間が明示されているなどしている場合ならともかく、在学生ないしOBが自身の経験を元に書いたら「ちょっとまてや」な感があり…公立小学校ともなると、鉄道駅とかICからのアクセスってのは、さすがに脱線な気配が。あるいはプロジェクト:学校で全体的な方針策定を呼び掛けたほうがいい案件かもしれません。なおリョリョさんの示された公園の例に関しては、やながわ希望の森公園#交通アクセスの節にて「さくら1号」という蒸気機関車運行の説明があり、これはまさしく特筆性がある形態なんではないかと思いますし、そこから派生して駅からの距離が判りやすい徒歩何分…ってのも、ある意味アリな気がします。まあ最寄ICから…ってのはボーダーラインかもしれませんが、なんとなーく高速道路からのアクセス性が施設の立地や道路状況を感じさせる(公式サイトにも記載あり)ので、問題ないんじゃないでしょうか。--夜飛(話/歴) 2012年4月30日 (月) 14:34 (UTC)
コメント 公立の小学校・中学校については、通常は「アクセス情報」は不要ですね。公立の小学校・中学校は、近隣から「徒歩で」通学するのが通常だからです。駅やバス停からの遠近は、その学校の児童生徒には関係ありません。
- 公立でない小学校・中学校、例えば「学習院初等科」は、遠方から公共交通機関を使って通学する児童が多いでしょうから、アクセス情報を書く理由があるでしょう。現に書いてあります。--Pooh456(会話) 2012年4月30日 (月) 14:39 (UTC)
- なるほど、なるほど。徒歩で通学するものであれば特にアクセス情報は要らない、または(例えば最寄りのバス停1つ、例えば最寄りの駅1つなど)もの凄く簡素なものを強く推奨する。明確ですし、結構実情にも添いそうです。学校プロジェクトの方のご意見をお伺いしたいところですね。--Hman(会話) 2012年4月30日 (月) 14:48 (UTC)
- 通学する児童は何もWikipediaでアクセスを調べるものではないでしょう。学校が自治体のどのあたりに所在するか理解する上で役に立つ情報でしょう。学校記事では交通アクセスよりも学区内の施設という節が気になっています。徒歩でしか通学していない地域ならまだしも、市町村合併などによる統廃合などによりスクールバスを利用している学校などですとかなり地域が広くなります。あるいは県庁所在地の中心地に所在する学校などですと通学区域内の施設がかなり多いものとなります。--Tiyoringo(会話) 2012年4月30日 (月) 15:04 (UTC)
報告 やながわ希望の森公園は内容がほぼ公式サイトからのコピペであったために、削除依頼に出しました。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 14:53 (UTC)
コメント 言いだしっぺで申し訳ないのですが、私も言うところの「新参」でして、プロジェクトとか言われても「???」となる場面が多い(憶測では、該当するジャンルの記事の取り決めみたいなものかな、と思いますが…)ので、現状はそういった依頼等は詳しい方にお任せしたいと思います。特筆性の有無については、「あぁ、そんな見方もあるのか!」と、いろいろ発見させられます。学校の記事については、皆さんの意見に「なるほど!」と言った感じです。--リョリョ 2012年4月30日 (月) 14:57 (UTC)
- 「プロジェクト」というのはプロジェクト:学校のことです。そこにはプロジェクト:学校/小学校テンプレート、プロジェクト:学校/中学校テンプレート、プロジェクト:学校/高等学校テンプレートといったテンプレート(記事の基本的な枠組み)があって、いずれも「交通」または「アクセス」という節が見えます。これらは強制力のあるガイドラインではないですが、これらのテンプレートに沿って記事を書こうとすると基本的に「交通アクセス」に言及してしまう、ということになりますね。こういう検証可能性を満たさない独自研究にしかならないような内容(バイク通学は届出制届出制、○kmから○kmまでとか)をテンプレートで推奨するのはどうかと思うのですが。こういうことはプロジェクト:学校で議論すると、もっとも有意義な結果が得られると思います。--Bugandhoney(会話) 2012年4月30日 (月) 19:43 (UTC)
自分も、国分寺市立第五中学校を書くとき困ってノート:国分寺市立第五中学校で質問したんですが、公式サイトに書いていれば転載。その他は不要ということでいいのではないでしょうか?まさか「マピオン」から引っ張ってくるわけには行きませんし。なお、自分は公立小・中学校でもアクセスは必要だと思います。何も学校にいくのは児童や生徒だけではないでしょう。--Yumetodo(会話) 2012年5月1日 (火) 10:34 (UTC)
- それは検証可能ということなんでしょうけど、ウィキペディアはガイドブックではないんで交通アクセスは必要ないと思うし、そもそも論として小学校、中学校は基本的に特筆性を満たすことがないと思うんですけど。--Bugandhoney(会話) 2012年5月1日 (火) 13:00 (UTC)内部リンク追加--Bugandhoney(会話) 2012年5月1日 (火) 15:49 (UTC)
- Bugandhoney様御指摘のそもそも論につきましては、「Wikipedia:削除依頼/長野県内の小中学校記事」とそれを受けた「プロジェクト‐ノート:学校#小中学校記事における特筆性」がございますので参考まで。(既に御承知いただいておられましたならば、御寛恕を)--Pseudoanas(会話) 2012年5月1日 (火) 15:58 (UTC)
コメント 「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」によれば、「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」は、専ら一次資料に基づいて書いても構わないとされています。最寄りの駅やバス停からの徒歩の時間などは、地図を用いれば誰にでも容易に検証が可能なので、百科事典に必要かどうかはともかく、少なくとも検証不可能な記述とはならないと考えます。- ただし、これがバスや電車のダイヤを考慮した乗り継ぎの利便であるとか、「祝日の西回りは混雑するため、交差点を左折して東回りするのがオススメである」といった、専門知識や土地勘のある人にしか検証できなかったり、主観的であったりする記述になってくると、独自研究の度合いが色濃くなったり、百科事典ではなく観光ガイドブックのような記述になっていくので、それはダメだろうとも思います。--Kanohara(会話) 2012年5月1日 (火) 15:38 (UTC)
コメントただの事実であっても「ガイドブックでない」ので必要のない情報です。--Afaz(会話) 2012年5月1日 (火) 23:45 (UTC)
コメント 私の考えとしては、以下の様な感じです。--Jkr2255 2012年5月2日 (水) 00:26 (UTC)
- 「最寄り駅から徒歩○分」程度の情報であれば、ガイドというよりおおまかな位置を表すという意味合いで有用な場合もある。
- アクセス自体に特筆性がある場合もありうる(例:上で出た定期観光バス、周囲の企業で無料運行しているメトロリンク日本橋や丸の内シャトル、小学校構内まで乗り入れていた都営バス梅78、最寄り駅自体が施設ができたことによる請願駅だった、などなど)
- 細かい道順などは一般的には不要。
コメント◆本節の議論では記事の主題である施設等についてはWikipedia:特筆性を満たしているという前提でその施設に対する交通アクセスの記載の是非を議論していると認識します。その上で論点としてはWikipedia:検証可能性とWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアはマニュアル、ガイドブック、教科書、学術雑誌ではありません、Wikipedia:検証可能性#記事内容の特筆性の辺りでしょう。で、個人的な意見としては、「出典のない情報は記載しない(出典があれば無条件に記載してよいわけではない)」のは大前提ですが、自主公表された資料(公式サイトやパンフレット等)の「施設利用者に向けた案内」をWikipediaでそのまま紹介するのはNGだが、施設の立地等を紹介するよう記述に工夫をすればOKにもなり得る。ただし、徒歩○○分という表記は「利用者向けの案内」なのでNGだと考えます(立地を紹介するためなら距離表示ですべき)。--M_aisawa(会話) 2012年5月2日 (水) 05:55 (UTC)
コメント徒歩○○分という表記は「利用者向けの案内」なのでNG、とは一概には言えないと考えます。立地に特筆性があり、時間的距離が問題とされる場合もあるでしょう。急坂の上の立地など、地形的なことの方が直線距離や道のりよりも記事に相応しい場合もあると思います。無論、あらゆる施設の記事にアクセス情報を入れる必要はないし、常識的な見地から不要、有害又は施設の宣伝の意味が強いと判断できれば編集除去するのは構わないと思います。青山学院大学#過去に存在したキャンパスの厚木キャンパスの記述のように、交通アクセスの不便さが際立っていたことを客観的表現で一文記載するのはむしろ記事として好ましい記述であると考えます。--ジャコウネズミ(会話) 2012年5月2日 (水) 18:06 (UTC)
コメント距離を明記した情報があるのだとすれば特に所要時間を併記する必要はないと考えますが、距離を明記した出典がない場合に暫定的な距離をあらわす情報として所要時間について記述のある出典を引くのは有用と考えます。ただし、適切な出典のない所要時間情報は非常に不確かな情報となるので記述しない方が無難かもしれません。--Himetv 2012年5月2日 (水) 19:27 (UTC)
コメント 私もアクセス情報はそれが特異なものでない限り記載すべきでないと思います。ウィキペディアはガイドブックではないからです。「徒歩○○分」という表記は、不動産屋などで使われる場合、実際に歩いて計ったものではなく、距離を分速いくらとかで割ったものではなかったでしょうか。道順や位置などについて、公式サイトの情報をそのまま転記するしかないようであれば、それはそちらのほうを見ればいいと思います。--Calvero(会話) 2012年5月3日 (木) 00:38 (UTC)
[編集] 文法の間違いをどのように訂正したらよいか
記事に文法の間違いがあると非常に気持ち悪いので書いた人に訂正してもらいたいのですが、間違っている箇所に[要出典]タグのようなものをつけるようなことはできないでしょうか?
例えば、「ここではきものをぬいでください」のようにどちらの意味でとったらよいのかわからない文章だった場合、その記事の内容に詳しくない人では訂正できないため、文法の間違いを指摘して詳しい誰かに訂正してもらいたいのですが。
--123.198.184.103 2012年5月2日 (水) 02:17 (UTC)
- その記事のノートでお願いしておけば、いずれ誰かが直してくれるかもしれません。記事に表示するにはちょっと、Category:インラインテンプレートには適切なものがないみたいですね??また、画面上方の「履歴」メニューを探索すれば、その箇所を書いた人がどこのどなたか、わかる場合があります。会話ページで直接お願いしてみてもよいかもしれませんが、そこまでしなくても良い気がします。--Hman(会話) 2012年5月2日 (水) 03:06 (UTC)
- 問題のある箇所だけを指定できるテンプレートはあります。{{要出典範囲}}、{{要検証範囲}}、{{疑問点範囲}}など。この場合は疑問点範囲が使えるかと。こういう感じです。[疑問点 ]。--Bugandhoney(会話) 2012年5月2日 (水) 15:14 (UTC)
[編集] 学生利用者の会の発足について
学生利用者が多いので学生利用者の意見交換の場として学生利用者の会を発足してはどうでしょうか?--182.169.80.138 2012年5月2日 (水) 08:03 (UTC)
コメント 学生利用者が多いという発言の根拠が分かりません。そしてウィキペディアでは特に学生などと言って特別扱いをするべきではないと思います。「意見交換の場」や、「学生利用者の会」と言うのがどういうことを表しているのかにもよると思いますが。別に学生でも「井戸端」などを使用することはできます。私は初心者ですので詳細は分かりかねますが、一応思ったことを話しました。--リョリョ 2012年5月2日 (水) 11:06 (UTC)
コメント そもそもが匿名なのだから身分証明なんてできません。自称学生の寄り合いになんの意味がありましょうか。--でぃーぷぶるー2(会話) 2012年5月2日 (水) 11:19 (UTC)
コメント 182.169.80.138氏は、「別アカウントなどによるブロック破り」としてブロックされています[12]。具体的なアカウントは明示されていませんが、投稿記録から誰のブロック破りかは、大体想像がつきますね。本件は終了でいいのではないでしょうか。--森藍亭(会話) 2012年5月2日 (水) 12:33 (UTC)
[編集] 移動依頼の放置について
現在、私は移動依頼2012年4月分において、「 フライング・ドッグ (レーベル) → フライングドッグ - 改名提案にて1週間の議論延長を経て合意形成に至ったため。議論はノート:フライングドッグを参照。」という依頼を提出しているのですが、管理者の方に放置されて困っております。コメントとして管理者の方に質問したのですが、返答をスルーされてしまったので、この移動依頼において近々で依頼の処理が一番多い管理者の方にその理由を聞いたところ、またもや遠まわしに回答を拒否されてしまいました。移動可能な案件と思って提出したのですが、管理者の方の好みで移動出来ないのは大変残念です。無理なら無理で、違う方法を取りたいと思いますので、何かしらのリアクションをしてもらいたいのですが…。私は一体どうすればいいのでしょうか?--Kozakura(会話) 2012年5月3日 (木) 06:59 (UTC)
- 保留理由についてはノート:フライングドッグに回答しました。--LearningBox(会話) 2012年5月3日 (木) 07:09 (UTC)
コメント ご回答を下さりましたので、一旦こちらの議論は停止させていただきます。--Kozakura(会話) 2012年5月3日 (木) 07:30 (UTC)
- 統合後に統合元の記事をリダイレクト非作成で移動すると、履歴継承に影響が出ますがこれは良いでしょうか。2009-02-28T01:35:09 (UTC) の編集内容の要約が赤リンクになります。移動記録で追うことはできますが、保留理由は主にこれです。--LearningBox(会話) 2012年5月3日 (木) 13:46 (UTC)
コメント ただし、統合提案のあったノートページには、統合元の履歴がどこに移動したかは告知致します。--Kozakura(会話) 2012年5月3日 (木) 22:28 (UTC)
コメント 以前にも統合元の履歴を保持しているリダイレクトでややこしい問題が起こり、Wikipedia:井戸端/subj/統合後のリダイレクトを移動した場合で話し合われたことがありますが結論は出ず、問題のリダイレクトはそのまま放置されています。--Jkr2255 2012年5月4日 (金) 00:53 (UTC)
[編集] 記事の所有権について
Wikipedia‐ノート:記事の所有権/英語版の翻訳#コメントですが、プロジェクト根幹に関わる、あまりに大きな話題になってしまうのでこちらに移動させてください。--Tondenh(会話) 2012年5月5日 (土) 08:26 (UTC)
- テーマが多岐に渡っていますが、とりあえず「そうした方の編集をやめさせることはプロジェクトの目的にかなっています」という部分は、財団のどの方針に基づいたものになるのでしょう。編集がオープンであることはmeta:Founding principlesといった財団綱領という最高レベルの方針で、その最高方針に修正を加えるようなルールであれば、必ずどこかで方針文章化されているはずで、なし崩し運用って事はないと思うんですが…。自分も上手く情報を探せていないのですけど。。--Tondenh(会話) 2012年5月5日 (土) 09:15 (UTC)
コメント 発言内容に疑問点があるのであれば、まずは発言主に尋ねることが筋です。大勢の人に見解を求めることは、そのあとでも宜しいのではないですか?--Frozen-mikan(会話) 2012年5月5日 (土) 09:56 (UTC)
[編集] 専門的内容の編集に対する問い合わせへの対応
お邪魔します。ある編集に対し、ノート等で具体的な根拠を示さない否定的コメントが続いた場合、どのように対処するのがよろしいでしょうか。
例えば、こんな状況です:
- 何年か前の状況を示す専門的な出典1があり、それに基づいて記事本文が記述されていた。
- その後状況が変わり、出典1の内容が古くなったことが最新の出典2から確認された。現状の記述から出典1を削除し、出典2と、対応する記述内容に置き換えた。
- 他のユーザ(Aさん)から問い合わせがあったため、出典2において状況が変化したことを説明。
- するとAさんは「専門的な話など聞きたくない、でもあなたが削除したことは問題のはずだ」と繰り返し主張。専門的な内容を踏まえた反論は、なし。記事内容に関する具体的提案も、なし。
たとえばメディアで科学的に誤った情報が流布されて、それが出典2よりも出典1に整合していた場合等に発生します。 専門的な内容を説明するだけで大変ですので、対応次第ではコミュニティに膨大な負荷がかかってしまいます。かといって、あまり無碍に対応するのもはばかられます。
このような場合、どう対応するのがよろしいでしょうか。お知恵を頂ければ幸いです。--s-kei(会話) 2012年5月5日 (土) 16:13 (UTC) --追記:2012年5月5日 (土) 22:57 (UTC)
- 具体項目を知らないので、上記の説明だけから考えます。「出典1」の内容は、その出典が出た時点では正しい、あるいは支配的な考えということですね。そうであれば、現時点の見解(出典2による)を記述するのはもちろん良いですが、百科事典としては、「xxx年ごろはこういう理解がされていた」ということを出典1をもとに説明することが、記事の冒頭ではなくて主な説明のあとにあるのは有用と思います。たとえば天体運行についての記事なら、地動説に基づいて説明するが、天動説は歴史的に重要な概念として記述します。また、見解の変化が教科書検定の差に現われるような現在的なことがらなら、それも記述に価します。--Sibazyun(会話) 2012年5月6日 (日) 00:31 (UTC)
コメント 一般論として、信頼できる情報源による出典の削除は問題視されても致し方ない行為です。出典1を残して新しい出典2による状況変化を記述することが望ましいと思います(そもそも、出典1を絶対に削らなくてはならないほどの理由があったのでしょうか)。「出典1では~と報告されていたが、その後、出典2で…」という感じで十分対応できるように思いますが。下手に出典を削れば後で問題視されるだけですから、もとの出典を削らずに済む文章を練ってから投稿したほうがいいと思います。今回の事例では、出典1および内容を一部復帰させた上で、出典2ベースの考えに変化していったことを記述するのがいいのではないかと(出典1を除去したことについては素直に謝ったほうがいいでしょう)。--かげろん(会話) 2012年5月6日 (日) 00:45 (UTC)
コメント ではここで例えば、「元々記事にあった出典1に、信頼性が全く検証できなかった」場合でも、同様の事態が起こることがあります。そういう場合は、如何でしょう。たとえば”その出典1は有名な○○教授のお言葉だろう、何故消すんだ”(でも、信頼性が全く検証できない)という主張を繰り返される場合です。 (「有名だ」ということが確認できるなりに紹介は別途行った上で、ことさら信頼性が求められる文脈からは外すケースを想定してます。)--2012年5月6日 (日) 01:59 (UTC) --追記:2012年5月6日 (日) 02:06 (UTC)、2012年5月6日 (日) 02:09 (UTC)
- 信頼性がなく検証不可能なら、除去すればいいだけの話です。別の出典があろうと無かろうと、除去されても文句は言えない(最終的にはケースバイケースだけれども)。これは、よくあることで、問題ない出典だと信じている人と対話するのは面倒な話ですが、この主題とは直接関係がないと思います。--EULE(会話) 2012年5月6日 (日) 06:11 (UTC)
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- 「よくあること」と言っているように、そのような問題は本当にウィキペディアにはつきものの話で、半年はおろか1年以上議論した例だってままあります。そしてこれは画一的な対処ができるような話ではなく、それが一方的に打ち切っていいものか、それとも辛抱強く対話を続けるべきか、具体的に挙げてもらえなければわかりようがないですし、挙げてもらっても、当該分野に知識がなければ何とも言えません。
- で、私が言いたいのは、あなたが最初にいった何年か前の状況を示す専門的な出典1云々は、その論点とはまったく関係がないってことです。始めから相手の出典の妥当性を問題にしたいなら、「最新の出典2」などという仮定は話をわかりにくくしているだけです。--EULE(会話) 2012年5月6日 (日) 13:39 (UTC)
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上策は、事前にノートで説明・予告した上で、1週間の反対が無ければ除去する、という手順です。これならば後から異論が出ても、信頼性あるか示してください、の一言で済みます。- 中策は、除去するときに要約欄に理由を記載する。これは、他の方も納得するような編集であること、理由が簡潔で済むことが条件でしょう。除去せずに、一旦は非表示にして様子を見るのも良いでしょう。
- 下策は、その分野の専門家ならば分かっているとの前提で、説明無く除去する。これは、あとから異論が出たときには、会話ページ/記事ノート/コメント依頼/ブロック依頼で延々と説明するはめになります。
- あいにく科学分野には疎いのですが、文理を問わず、出典付の記述を除去するときは慎重に事を進めるべきでしょうね。--Ashtray (talk) 2012年5月6日 (日) 14:34 (UTC)
[編集] NAVER人物検索を出典とすることの是非
NAVER人物検索を存命人物の出典として使用している記事をこのところ多く見るようになりましたが、そうした利用には問題がないかどうかご意見をいただけないでしょうか。--Tiyoringo(会話) 2012年5月5日 (土) 18:35 (UTC)
- 本家のNAVER人物検索(韓国語)もあります。こちらも存命人物の出典として使用されています。--hyolee2/H.L.LEE 2012年5月6日 (日) 09:40 (UTC)
コメント「Wikipedia:信頼できる情報源」で示される「信頼できる公刊された情報源」ではなく、記事の出典には出来ないと考えます。--Pooh456(会話) 2012年5月6日 (日) 12:11 (UTC)番号無しリスト化させていただきました。--LudwigSK(会話) 2012年5月7日 (月) 03:55 (UTC)
コメントざっと見たところ、調べ物をするにはとても便利なサイトです。しかし利用者が好きに公開投稿コンテンツを作成できるようなので、ここを出典として認めればどんな独自研究でも執筆できてしまうのではないでしょうか。自治のしくみがあるので、あまりひどい内容であれば削除されるのでしょうが、そのしくみが常に働くことは期待できません。執筆の参考にはなっても、最終的には他で裏を取る必要があるでしょう。--LudwigSK(会話) 2012年5月7日 (月) 03:55 (UTC)
[編集] Wikipedia:投稿ブロック者(仮称)導入の提案
以前から思っていたことですが、Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックにおいて、なかなか対処されないケースが目立つように思います。これもあってか依頼者から「迅速に対処してください」や「早急に対処してください」といった発言が多いと思います。Wikipedia:井戸端/subj/新しい利用者グループの作成、Wikipedia:井戸端/subj/新しい利用者グループの作成についての議論を経て他言語版も参考にしながらWIkipedia:巻き戻し者、WIkipedia:削除者、WIkipedia:インターフェース編集者が導入されたのですが、慢性的に管理者が不足している中、通常管理者に割り当てられる機能の中で投稿ブロック機能のみを得られる権限については何も議論されなかったようです。
上記の3利用者グループが導入される以前は削除機能権限だけを持つ為にWikipedia:管理者への立候補をする人もいたのと同様、現時点で投稿ブロック機能だけを持つためには管理者への立候補をする、という選択肢しかありません。そこでWikipedia:投稿ブロック者(blocker、仮称)の導入を提案したいと思います。草案として以下のように考えています。
- 概要
- 通常管理者に割り当てられる機能の中で投稿ブロック機能のみを得られる権限で、「投稿ブロックと解除、およびブロック期間の設定変更」が与えられます。
- ウィキペディアの基本方針に通暁し、適切な判断を下せる利用者だと認められないと承認されにくいでしょう。
- 新しい申請はWikipedia:権限申請/投稿ブロック者#申請プロセスを読んで「推薦・立候補するには」にあるフォームから行ってください。
- 権限の付与
- ウィキペディア日本語版で一定の活動実績を持ち、投稿ブロック依頼で適切な対応が出来ると認められた利用者に権限が付与されます。
権限の申請はWikipedia:権限申請で受け付けています。申請から1週間経過し、権限付与に一定の合意があると考えられる場合、申請者に権限が付与されます。
- 立候補の要件
- ログイン後、自動承認(または承認)された利用者。
- 有権者の要件
- 管理者信任投票に同じ
- 信任の要件
- 投票開始から1週間たって、賛成票が10票以上、なおかつ75%以上
- 権限の除去
- 権限の除去を希望する場合、Wikipedia:権限申請でその旨を伝えてください。また長期間活動がない場合、権限はいったん外されます。
- 権限を持つ利用者が権限の不適切な利用を繰り返す場合は、Wikipedia:権限申請で権限除去を提案してください。権限除去への賛同意見が多い場合、投稿ブロック者の権限は除去されます。
概要や権限の付与・除去、立候補の要件は先の3つの利用者グループとほぼ同じになりました。もし導入されたら日頃から投稿ブロックの議論に参加している人で、少しでも管理者の手助けをしたいと思っている人が立候補されるのではないかと思われます。そうは言うものの、一番重要なのは「投稿ブロックの目的を理解しているか」だと思います。それをしっかり理解していないと承認されないと思います。WIkipedia:投稿ブロック者が他言語版にあるかどうかは存じ上げておりませんが、もし何かご意見がありましたら賛成意見でも反対意見でも、何でもいいのでお願いします。--Hata-san(会話) 2012年5月6日 (日) 11:57 (UTC)訂正--Hata-san(会話) 2012年5月6日 (日) 12:40 (UTC)
- ブロックは管理者権限のなかでももっとも重大なものです。ブロック権限は与えてよいが、削除権限・巻戻し権限は与えられないという利用者の存在は考えにくいかと。ブロック権限を与えてよいような利用者はすでに管理者になるべきかと思います。--ぱたごん(会話) 2012年5月6日 (日) 12:08 (UTC)
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- クローズに賛成。そもそも投稿ブロックの原因となる問題投稿などは、先に別の管理者等により削除されるケースも多く、削除権限を持っていないと参照できないことがしばしばありますので、削除権限なしの投稿ブロック権限というのは論外と思います。--ろう(Law soma) D C 2012年5月7日 (月) 05:51 (UTC)
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[編集] 会話ページの白紙化について
こんにちは、さて、今回は会話ページの白紙化についてお伺いしたいと思います。あるユーザーが、そのユーザーの会話ページを過去ログ化等することなく無断で白紙化する行為は、認められるのでしょうか。私が疑問に思ったユーザーはYOKOTA Kuniteru氏ですが、少なからず議論や他の方のコメントも入っているようで、日本以外の他国籍の方または海外在住の方のよう(確証はありません)ですが、この行為は問題ないのでしょうか。白紙化のたびに何度か差し戻しが行われているようですが、すぐにその差し戻しが差し戻されています。皆さんのご意見をお願いします。--リョリョ 2012年5月7日 (月) 08:51 (UTC)
- これは「かなり拙いケース」(敢えて太字)と判じます。まず、過去の版において最大バイト数を記録する2011年7月29日11:12版(54,030バイト)を見ると、何ともいえない気分に襲われるほど対話が成立しておらず、意見を返すでもなく(コメントを入れた側の会話ページにも該当する書き込みが見られず)白紙化する行為は対話拒否と取られて余りある行為であり、再三繰り返しブロックに至っていて、今なお活動しているのが不思議としか言いようが無い水準の利用者のような気配もないではない。まあ散発的に極めて限定的な分野にて活動している方のようですが、どうにも「何か妙な使命感をモチベーションとしている活動家」のような部分も感じられ、その指向は百科辞典を作るというプロジェクトの上で違和感をかもしているような…--夜飛(話/歴) 2012年5月7日 (月) 09:53 (UTC)
コメントWikipedia:投稿ブロックの方針#8.2項_他者の発言の改竄に例外として、1.自己の会話ページの削除(定期的に白紙化を行なう事など)、が挙げられています。YOKOTA Kuniteru氏も過去の版を見ると、この条項を意識なさっているようにみられます。この条項が、A)編集として無条件に良しとされた例外なのか、B)投稿ブロック要件とならないというだけの限定的な例外規定なのか、わたしからも皆様にお伺いいたします。GNU Free Documentation Licenseのもとでは改変及び複製は自由となりますが、削除も自由とは言えません。Wikipediaのルールとして削除すべき文章以外を削除する場合、本来的に、コメントを寄せた全ての人に全てのコメントについてGNU Free Documentation Licenseおよびクリエイティブ・コモンズのライセンスを放棄してもらう必要がある、という考えも成立するかと思います。1.自己の会話ページの削除(定期的に白紙化を行なう事など)、は、2.過去ログ化(/削除などのサブページへの移動も含む)、とは別条項であり、1.を「過去ログ化に伴う白紙化」と解釈することはできないと考えます。A)なのかB)なのか、どちらなのでしょうか?--ジャコウネズミ(会話) 2012年5月7日 (月) 09:58 (UTC)
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コメントこの件は,私も気になっておりました。ジャコウネズミさんの言われるように,「Wikipedia:投稿ブロックの方針#8.2項_他者の発言の改竄」に「自己の会話ページの削除(定期的に白紙化を行なう事など)は,差し支えない」と解釈するのが自然な条項があります。以前,自分の会話ページを白紙化し,しばらく経ってから,考え直して,会話ページを復元した経験があります。現在では,「会話ページの白紙化は不可」と考えておりますが,上記のWikipediaのルールと矛盾するのも確かです。- 「Wikipedia:投稿ブロックの方針#8.2項_他者の発言の改竄」は,現状では不適切な条項を含んでいる,と言えるのではないでしょうか。--Pooh456(会話) 2012年5月7日 (月) 12:34 (UTC)
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- その前提として、Wikipedia:投稿ブロックの方針#8.1項 議論の拒否や妨害があるので、以前はうまく機能していたんじゃ無いでしょうか…利用者会話ページの定期的な白紙化も。件の8.2項の条文は2004年9月23日20:59版から存在しますが、たぶん考え方としてサンドボックスの白紙化と同じような、「既に目的を果たした書き込みは除去していい」という趣旨だと思います。ただウィキペディア日本語版が初期の段階でこそ、一人の利用者がガイドラインもまだ良く判っていなくてやらかしてしまいがちな行為をしでかしても、先発利用者がある程度は付き添うような格好で繰り返し助言を与えていたものが、現状ではコミュニティがだいぶ大きくなり、一利用者に先発利用者が繰り返し助言を与えることが新規利用者が(LTA案件における量産型ソックパペットや捨てアカウント乗り換えで場当たり編集を繰り返す追跡逃れ利用者を含め)膨大な数に上ることから困難で、現在においてまま利用者会話ページに寄せられた複数利用者からの評価や意見の累計評価として問題利用者や目的外利用者として扱うべきかどうかを判じているところがあるため、無闇な会話ページ白紙化も追跡逃れと同一視ないし同列扱いされるようになってきている風潮があるのかも。なおもいえば、きちんとした問題点の指摘におかしな返答しかしていないケースも含め終了していない案件を会話ページから除去することは、他者の心象を著しく損なうのは目に見えており、それでなおそういう行為を繰り返せばWikipedia:エチケット以前に他者への敬意を欠いている…というか、コミュニケーションが取れていない・しかも同じ指摘が繰り返されていれば問題行動が繰り返されている査証にしかならないように感じます(まあ一般論ですが)。--夜飛(話/歴) 2012年5月7日 (月) 13:57 (UTC)
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- 自身の会話ページからのコメント除去に関しては過去にたびたび話題になっています。たとえば、Wikipedia‐ノート:荒らし#Wikipedia:荒らしの「ノート荒らし」の項目の矛盾ついてなど。いくつかの方針文書で自身の会話ページの編集には相当の裁量が認められている、と書いてあります。たとえば、Wikipedia:ノートページのガイドライン#利用者の会話ページには利用者自身の会話ページではより幅広い自由裁量が認められています。コメントの除去も方針では禁止されていません。ただし、過去ログ化を推奨しますとあります。英語版の文書を読む限り、会話ページに書いた注意が削除されたら読まれて了解されたと受け取る、という習慣もあるみたいです。自身の会話ページから他人のコメントを除去すること自体は咎められないでしょう。自身の会話ページからも削除すべきでない類のメッセージを規定するしかないかなと。--Bugandhoney(会話) 2012年5月8日 (火) 13:38 (UTC)
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[編集] 投稿ブロック依頼の議論期間の短縮について
投稿ブロック依頼の終了が遅くなってきてるので議論期間を短縮してみればどうでしょうか?--ZHPX(会話) 2012年5月8日 (火) 10:16 (UTC)
報告 利用者:ZHPX(ノート / 履歴 / ログ)をブロック逃れとしてブロックいたしました。--Marine-Bluetalk✿contribs✿mail 2012年5月8日 (火) 12:08 (UTC)
[編集] Article translation request
I am trying to find someone who can help to translate User:Russavia/Polandball into Japanese. If anyone could help with that, it would be great if you could drop me a message on email (russavia.wikipedia@gmail.com) or on my Commons talk page (Commons:User_talk:Russavia). The article already exists on Russian, Spanish, Catalan, Arabic, Dutch, Greek, Swahili, Persian, etc Wikipedias. Any help with translating this article would be greatly appreciated
All editors have my permission to edit the article at User:Russavia/Polandball to do the translation. Russavia(会話) 2012年5月8日 (火) 13:47 (UTC)
I will try to translate in 利用者:Himetv/ポーランドボール. Please wait several days. --Himetv 2012年5月8日 (火) 15:04 (UTC)
[編集] 草案段階にある方針文書の重要な改変が合意形成を必要としないのか?
Wikipedia:特筆性 (ウェブ)、Wikipedia:特筆性 (人物)、Wikipedia:特筆性 (組織)、Wikipedia:特筆性 (書籍)という4つの方針文書に対する編集で、記事頭から「この草案文章は削除の理由として採用されていないことにご注意ください。」という文言が除去されたました。私はこれらの草案段階にある方針文書が重要な文書であって重要な改編はノートなどでの合意形成を必要とすると考えていましたので、Wikipedia‐ノート:特筆性 (ウェブ)やWikipedia‐ノート:特筆性 (人物)、Wikipedia‐ノート:特筆性 (組織)、Wikipedia‐ノート:特筆性 (書籍)に変更の議論がないことを確認し、差し戻した上で当該人物の会話ページへその事実と、修正するならまず合意形成が必要だと知らせました。先程、別の編集者によって4つの草案文書から当該の文言が「進行中の議論ではないので告知不要。ガイドライン・方針ではないと明記されており冗長。」として再び除去されました。仮に「進行中の議論ではないので告知不要」であれば、文言を加えることも可能なのでしょうが、そもそも、草案段階にある方針文書の重要な改変が合意形成なしで行われることは正しいのでしょうか? 削除審議内での削除の理由として何が基準となるかは、非常に重要なガイドラインであると考えるのですが、誰でも容易に改変可能なのでしょうか?--Shigeru23(会話) 2012年5月9日 (水) 14:59 (UTC)